yoshi.s
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虚(うろ)になった根元にも存在感を感じる。 空っぽの幹に、なにが在るのだろう。 覗いて見ても、朽ちた木片と中に生えた草だ。 でも、無性に惹かれる。何かが私を捉えているのだ。 もはや存在感を感じるに留まらず、この木の何かと私の中の何かとが、交流し合っているようにすら思える。 いったい私の何が、そしてこの木の何が、触れ合っているのだろう。 *存在3の、Zacky01さんへの私の返コメを、多少アレンジの上、下欄に再掲します。 *根元の存在感に誘発された拙思い巡らしはこの辺で。独りよがりご容赦。
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*アリストテレスは、存在するものを2つに分けて考察します。 一つは質料(ヒュレー)。物質そのもの。 もう一つは形相(けいそう/エイドス)。他と区別されるそのものの本質。 形相と質料とが交流しあって、現実態(エネルゲイア/現実の姿)、つまり存在するものとなる。 とすれば、本質は形相か、ということになるが、質料と形相、両者が揃って現実態(そのもの)になるのであれば、片方だけでは本質と言えないのでは・・、という矛盾に陥ります。 ということになると、論理で本質を掴むのは無理なのではないか・・。 そこで東洋的思考法、瞑想、つまり感覚的把握が必要になる、と私は考えています。 だからこそ、そのものの存在を感じ取る力がその始まりだと思うのです。
2024年09月08日01時00分