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春彼岸。 掃除にしてはいささか遅め。お参りにしては中日前だ。 両者を兼ねての墓参り。 春の掃除は大したことはない、とたかをくくって行ったが、どうしてどうして、時間がかかった。まあ、いつものことだが・・。 墓に手を合わせると、林の間から夕陽が差し、ご先祖様や父、母が、よしよし、と言ってるような気がした。 日が沈みかかった頃に墓を出たが、途中のこの川まで来ると、日は山の端に沈み、その残照が川を照らして、お疲れさん、と言っていた。そこが彼岸だった。 *今日は彼岸明け。束の間の彼岸の景色に感謝。
♪tomo♪さん そうですか。 お彼岸というのは、上記の通り、先祖供養を通して、自分の心を無にすること、と捉えれば、少しの間でも無心に掃除をし、お花をあげ、香を手向けたりすることですね。 お盆が純粋に先祖を思いその魂を供養するものとすれば、お彼岸はむしろ、自分を洗心することと捉えてもよいかもしれませんね。 行ってらっしゃい。
2023年03月24日14時35分
yoshi.s
彼岸は、向こう岸。 煩悩の川を超えた悟りの境地のことだ。 悟りとは何か。何者にもとらわれなくなった自由な心。無我の境地と言ってもいい。 ずっとそうであるにはもっと修行が必要だが、一時的になら彼岸を体験することができる。 無心に墓掃除をする。それも煩悩の川を渡る行為の一つだ。 つまり彼岸会とは、先祖を祀ることを通して、彼岸に渡る修行を行うこと自体だ。その最も簡便な行が、無心に行う清掃である。墓を掃除し、洗い清める。香を献ずる。それこそが洗心の行だ。 その結果として、沈む日の光も、木々の囁きも、せせらぎの音も、すべてが彼岸の景色に見えてくる。たとえ一時的にでも、その経験は他のものには代えがたい。一度得た感覚は、また得ることができるからだ。
2023年03月24日18時06分