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遠妻し高にありせば知らずとも 手綱の浜の尋ね来なまし 万葉歌人、高橋虫麻呂の歌。 都を遠く離れた常陸国(茨城県)に赴任していた彼が、都にいる妻を想う歌。 知らないところだろうけれども、風光明媚で知られる手綱浜を尋ね来て欲しい。 万葉歌人が愛でた手綱浜。その浜を眺める崖上の山道。今もほとんどそのままに残っている。この歌にちなんで、万葉の道、と名がつけられた。 ここは、万葉の道の入り口である。ここを上ると山稜に出る。その先は断崖絶壁。絶壁に沿って山道を行く。すると、眼下に絶景が。
写楽旅人さん はは。初めてだとちょっと不気味ですよね。 ほとんど人が行かないのはうなずけます。 私はかつて知ったる気に入りの道。ずんずん行きますが、上まで行くのに息が切れるようになった。さあて、いつまで登れるか。
2022年07月04日16時07分
彌生時代の日本人口が数十万人、奈良時代が約500万人で、万葉時代は奈良時代に近いけれども、現在の1/20以下。 このころは、こんな僻地で山にはいったら死と隣り合わせで、ピリピリ緊張しながら歩いていたのでしょう。 風景を味わい、和歌を詠みながら旅するのは、なかなかたくましいと思います。
2022年07月04日15時36分
頑張れ!てんちゃんさん この地方はね、奈良・平安の頃から、奥州に向かう浜街道(当時はこの辺の道も東海道と呼ばれていたとのこと)の途次で、要衝なのです。 この頃、京の力と奥州の蝦夷の力とが拮抗するあたりがちょうどこの辺でした。ここから20kmほど北にあるのが、かの勿来の関です。 そんなところに朝廷から派遣された髙橋虫麻呂は重要な官吏であって、従者を連れての旅だったはずです。しかも万葉集に載るほどの歌人。いわばエリート官僚で、悠々たる道行きだったと思います。 なお、奥州の蝦夷が坂上田村麻呂によって平定されるのは、平安時代に入ってからのことです。
2022年07月04日18時42分
頂雅
これが手綱浜へ下りる万葉の道。 是非 一度は尋ねてみたい!
2022年07月02日14時02分