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(21) みんなが興奮した声で次々にしゃべり出した。 「だれ一人欠けてやしないものな」 「だれかが声をかけたわけじゃない。でも誰も忘れなかった」 「いや、忘れなかっただけじゃない。あそこに戻りたかったんだ。だって大本だもの」 その瞬間、みんなが一斉に互いの顔を見た。 桜が舞った。 「そうか! いのちの大本って言うのは、それか!」真一が、興奮した声で言った。「大本っていうのは全体のことか」。「おれやお前って言っているのは、目で見える限りのものなんだな。本当は一つなんだ!」 *下に続く
桜が舞った瞬間、いのちの大本という大きなテーマを全体で通じ会えたみたいで、良かった、良かったです。 真一君とタクマ君によって場にも笑いが戻りました、それにしても素晴らしい仲間たちです。
2017年05月06日21時29分
annshii46さん 共感して下さって嬉しいです。 これは東洋的な世界観です。吉夫は、両親の事故死、祖父の突然の死という不幸によって、いのちというものを真正面から考えざるを得なくなりました。悩んだ末に自らこの世界観にたどり着いたのです。そして、そのことが自分の人生を方向づけることにもなりました。 仲間と共有したあの時が、その揺りかごでした。仲間もまた同じ時を体験していました。
2017年05月07日00時55分
なんだか禅問答を彷彿とさせますね。 料理を例えに説明する拓真君、写真を例に説明する真一君、彼らの話はよくわかりますね。 写真も切り取り方で、何を見せたいのかが違ってきます。でもそこに写っていないものも確かに存在するのです。
2017年05月07日04時02分
お仲間の皆さんがそれぞれに吉夫さんの考えに共感し自分のものとして 分かり易く話してくれる形に私も頷いています。 仏教的な考えにも通ずるのでしょうか。 このような事を話し合えるお仲間がいて素晴しいですね。 桜も八重になっていよいよ重みを増してきました。
2017年05月07日09時09分
旅鈴さん そのとおり、禅問答です。これは分別のことです。 分別のある大人というと、ふつう立派な人のことを言いますね。 しかし禅では、分別を捨てよ、と言います。本来一つのものを、分けて考えるから本質が見えないのだ、と言うのです。 吉夫のたどり着いたのはそこです。しかももっとも重要ないのちのことについてです。 吉夫の提起したこの考え方に、真一たちもいま気づき始めました。
2017年05月07日14時08分
michyさんも、この考え方を仏教的と感じておられますね。 私たち日本人は、このような考え方に馴染みがあります。 あとは、それを得心するかどうかですね。 桜はいいですねえ。 まず吉野桜が咲き、続いて山桜、そして八重桜と、順番に楽しませてくれます。 その桜ももう終わりです。季節はいつも移ろいゆきます。
2017年05月07日14時09分
はなてふさん 自分でありつつ全体でもある、という、思考としては二律背反的なのですが、現実には十分に起こりえます。と言うよりも、よく見れば存在とは本来そういうものなのです。持ちつ持たれつ。他のためにすることが結果として自分のためにもなる。そこに気がつくかどうか、ですね。 あと一歩のところまで来ましたねえ。
2020年04月26日20時23分
yoshi.s
*つづき 「しかし人間を全体として一つだと見ると、僕や君は無くなってしまうことになるな。でも現実にはここにいる」と、幸広が冷静に言う。 「うーん、見方一つじゃないかな。料理と同じだと思う。材料一つひとつに味があるんだが、それを全体として調和させる。料理の味は総合されたものだが、でも一つひとつの味はしっかりそこにあるぞ。それが料理人の腕だ」と、拓真が言う。 真一が続けた。「そのとおりだな、拓真! 見方一つによる。写真も同じだ。近くのものだけに焦点を合わせれば、全体はボケて一点しか見えない。しかし深く焦点を合わせれば全体が見える。でも全体が見えたからと言って、近くの一点が無くなってしまったわけじゃない。全体の中に溶け込んで見えにくいが、でも間違いなくそこにある!。要は、どこに目を向けるかだ」 「人間全体のいのちと僕や君の個人のいのちは、同時に同じ料理の中にあり、写真の画面の中にあるのか。なるほど」幸広がうなずいた。 真一の興奮はまだ続いていた。「拓真、いいこと言うじゃないか。分かりやすいよ!」 「いや、ぜんぶ料理の師匠の受け売りだよ」拓真が答えた。 緊張の糸が緩んで、みんなに笑いが戻った。 *次の桜につづく
2017年05月06日20時11分