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半袖の肌に纏わる潮の音 Pentax-M 28mm F2.8 旧日本美術院跡地からの撮影です。 ここに岡倉天心をはじめ、横山大観、菱田春草、下村観山、川合玉堂たちが起居し、新しい日本画の研究に没頭していたことを想うと胸が高鳴ります。これは彼らが見ていた景色なのです。 *掌編はコメント欄に。
成る程、近代日本画の黎明期を担う人々が 波に洗われ、風に枝を震わせるこの景色を 日々眺め創作のヒントを得ていたのですね。 この春の房総半島旅行で初めて千葉県(安房 の国、下総の国)を訪ねましたが、茨城県( 常陸の国)は未だ見ぬ地。 次回の関東旅行での目的地のひとつにさせて 頂きます。
2016年07月29日10時14分
yoshi.s
茨城県の北端北茨城市に県立天心美術館はある。 写真の断崖上に建つ同美術館は、日本美術院ゆかりの日本画専門の美術館です。 明治の中頃、27才にして東京美術学校(現東京芸大)の校長となった岡倉天心は、いくつかの事情によって辞職を余儀なくされた。 新しい日本画を模索していた天心は、新たに日本美術院を起こし、間もなく愛弟子の横山大観、菱田春草、下村観山、川合玉堂らとともに、東洋のバルビゾンを目指してここ茨城最北の地大津の五浦に居を移した。 天心の目指した新しい日本画とは、それまでの日本画の特徴であった輪郭線を廃し、色の濃淡のみで表現する、いわゆる没骨描法と呼ばれるもので、それをもって気韻生動と言われる自然の気を表現しようとしたのだ。しかしこれは、はっきりしない幽霊の絵のようだと評され、朦朧体と揶揄された。 しかし彼らはそれに屈せず研鑽を重ね、やがて海を越えたアメリカで高い評価を受けるようになった。以後『朦朧体』は、日本画のもう一つの流れとなり、今日、院展として日本画壇に重要な位置を占めるようになった。 ちなみに先年まで2度にわたって東京芸大の学長を務めた故平山郁夫は、日本美術院の理事長でもあった。
2016年07月11日00時30分