ホーム TR3 PG@ 写真一覧 2004年中国の旅3 龍門橋@河南省・洛陽 TR3 PG@ ファン登録 ユーザートップ 写真一覧 ギャラリー お気に入り ファン ファンになっているユーザーの写真 ファンになっている ファンになってくれている 2004年中国の旅3 龍門橋@河南省・洛陽 お気に入り登録16 10571件 D E 2025年03月09日07時43分 J B
洛陽市街から龍門石窟に来ると、先ずは入り口に架かる石造りの大橋が目に入ってきます。 これは龍門橋という伊河にかかる石橋で、長さ303.8m、幅10mで1962年に完成したなかなか立派で迫力ある橋です。 コメント1件 TR3 PG@ ここで自分の振り返りのために龍門石窟について少し深堀りしてみたいと思います。 さて、龍門石窟は5世紀末494年に北魏の6代皇帝孝文帝の時代から開削を開始したと言いましたが、中国には三大石窟として甘粛省敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)、山西省大同の雲岡石窟(うんこう せっくつ)、そしてここ河南省洛陽の龍門石窟が有名です。 これら三大石窟は中国の仏教伝来・発展と国の統治に大きな関わりがあります。 仏教は漢の時代に中国に伝わったとされ、三国時代から晋、そして南北朝の時代に中国各地で発展しました。 莫高窟は五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年に開削を始め、元まで続いたと ...言われています。 開削を始めた前秦が394年に滅亡し、北方の鮮卑族の拓跋珪(道武帝)が 386年に北魏を建国します。 その後398年に北魏は河北・山西を攻め、平城(現在の山西省大同)に都を移しました。 北魏は仏教を国民統治に利用し、初代皇帝道武帝と2代皇帝明元帝は、釈迦と皇帝を同一視する(皇帝即如来)ことで皇帝の権威を高めたといわれています。 しかし、3代皇帝である太武帝は、廃仏棄釈の考えのもとで仏教を厳しく排斥し、漢民族の道教を保護しました(漢民族との同化政策)。 その後、4代皇帝文成帝が即位すると、仏教排斥を緩和して仏教復興事業に乗り出します。 そして460年に先亡皇帝達の追善のために、当時の国都であった平城(大同)の西に雲岡石窟の造営を始めるのです。 498年、6代皇帝孝文帝は中国を統一するためには都の平城が北に偏りすぎていたため、東斉を伐つとの口実で集めた大軍により洛陽に遷都します。 この翌年に皇帝に即位した7代皇帝宣武帝は、雲岡石窟の継続として500年頃に伊河沿岸の伊闕に石窟を掘るように命じました。 が、実際はその数年前には、 既に供養目的の石窟の造営が始まっており、その記録を持って龍門石窟の造営の始まりといわれているそうです。 以上、ざっくりした歴史の流れをまとめてみました。 いずれにせよ、中国三大石窟は中国での仏教の隆盛に沿っており、かつ皇帝による国の統治に仏教を利用し、先亡皇帝達の追善のために造営されたということです。 ただ、甘粛省敦煌の莫高窟はチベット系の前秦、山西省大同の雲岡石窟と河南省洛陽の龍門石窟は鮮卑族の北魏によって開削された違いがありますが、その後の王朝による破壊も無く、逆に追加で彫り込まれ受け継がれたところに仏教と中華王朝の歴史の継続性を強く感じることができます。 どこぞの異民族、異教徒による破壊行為とは一線を画しますね。もっと見る 2025年03月09日07時48分 新規登録・ログインしてコメントを書き込む コメントを書き込む 同じタグが設定されたTR3 PG@さんの作品 最近お気に入り登録したユーザー 房総半島☆南風 ファン登録 audi ファン登録 Chasamaru ファン登録 macmos ファン登録 GEN. ファン登録 すー太郎 ファン登録 ことだま ファン登録 猛山 ファン登録
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ここで自分の振り返りのために龍門石窟について少し深堀りしてみたいと思います。 さて、龍門石窟は5世紀末494年に北魏の6代皇帝孝文帝の時代から開削を開始したと言いましたが、中国には三大石窟として甘粛省敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)、山西省大同の雲岡石窟(うんこう せっくつ)、そしてここ河南省洛陽の龍門石窟が有名です。 これら三大石窟は中国の仏教伝来・発展と国の統治に大きな関わりがあります。 仏教は漢の時代に中国に伝わったとされ、三国時代から晋、そして南北朝の時代に中国各地で発展しました。 莫高窟は五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年に開削を始め、元まで続いたと ...言われています。 開削を始めた前秦が394年に滅亡し、北方の鮮卑族の拓跋珪(道武帝)が 386年に北魏を建国します。 その後398年に北魏は河北・山西を攻め、平城(現在の山西省大同)に都を移しました。 北魏は仏教を国民統治に利用し、初代皇帝道武帝と2代皇帝明元帝は、釈迦と皇帝を同一視する(皇帝即如来)ことで皇帝の権威を高めたといわれています。 しかし、3代皇帝である太武帝は、廃仏棄釈の考えのもとで仏教を厳しく排斥し、漢民族の道教を保護しました(漢民族との同化政策)。 その後、4代皇帝文成帝が即位すると、仏教排斥を緩和して仏教復興事業に乗り出します。 そして460年に先亡皇帝達の追善のために、当時の国都であった平城(大同)の西に雲岡石窟の造営を始めるのです。 498年、6代皇帝孝文帝は中国を統一するためには都の平城が北に偏りすぎていたため、東斉を伐つとの口実で集めた大軍により洛陽に遷都します。 この翌年に皇帝に即位した7代皇帝宣武帝は、雲岡石窟の継続として500年頃に伊河沿岸の伊闕に石窟を掘るように命じました。 が、実際はその数年前には、 既に供養目的の石窟の造営が始まっており、その記録を持って龍門石窟の造営の始まりといわれているそうです。 以上、ざっくりした歴史の流れをまとめてみました。 いずれにせよ、中国三大石窟は中国での仏教の隆盛に沿っており、かつ皇帝による国の統治に仏教を利用し、先亡皇帝達の追善のために造営されたということです。 ただ、甘粛省敦煌の莫高窟はチベット系の前秦、山西省大同の雲岡石窟と河南省洛陽の龍門石窟は鮮卑族の北魏によって開削された違いがありますが、その後の王朝による破壊も無く、逆に追加で彫り込まれ受け継がれたところに仏教と中華王朝の歴史の継続性を強く感じることができます。 どこぞの異民族、異教徒による破壊行為とは一線を画しますね。
2025年03月09日07時48分