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ゆりの木。英語ではTulip tree。 さて、名は体を表しているだろうか。 日英両語ともこの木の花の形を他の花に見立てただけだ。この木を象徴はしていない。 多くのものが外形的な名を持つ。しかし古い日本語にはそのものの本質を表そうとした名が結構ある。 人(ひと)は、ひ(霊)と(止)。 卑弥呼は、ひ(火)み(水)こ(子)。(卑弥呼という漢字に意味は無い) ひ、が霊と火の意味を持つのは面白い。 言葉や名前が生まれる頃の人々は、きっと事物の本質を見ようとする目を持っていたのだろう。 *下に続く
神代植物園で久しぶりにユリノキに会ってきました。 マグノリアのコーナーでは泰山木とユリノキの大樹には いつも直接手を触れてエネルギーを頂いています。 それぞれ実が付いていました。
2024年09月07日16時14分
ぶっちゃんさん はは。怖くはありませんね。 でもいつも、パワーというか、生命力というか、存在感を感じますね。 それがこのシリーズのテーマになりました。
2024年09月09日08時03分
yoshi.s
*つづき その昔、ことば(言葉)がどうやってできたかは分からないが、とくに自然の事物に名を付けようとするとき、人々はきっとその本質を見ようとしていたに違いない。 それは古代ギリシャの知を愛する人々(Phirosopher)と同じだ。いや、それよりもはるかに昔の人々だっただろうから、まだ文字を持たなかったか、もし持っていたとしても後から来た人々にその歴史を消されてしまって今の私たちにはその足跡が見えないがために、残念ながら彼らの思考は今の私たちは知り得ない。 しかし少なくとも、その人たちに事物の本質を見ようとする感性や感覚があったであろうことは、その人たちの作った私たちのことばの端々から窺い知ることができる。 本質に向かおうとする感性。その入口は、まずものの存在感を感じる力である、と思えるのだ。
2024年09月07日19時57分