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コマーシャルで、♪名前も知らない木ですから 名前も知らない花が咲くでしょう♪という歌があった。 名前は知らなくても花は咲く。 名を知れば便利ではあるが、その木自体を知るわけではない。 そこで本を読んでその木の知識を得るが、それは木の外面であって本質ではない。 なら、本質とは何だろう。 根元に感じる存在感は、その本質から現れ出るものなのだろうか。 そしてそれを感じない者には本質は存在しないのだろうか。 この木の話はそのまま人間にも置き換えられよう。 斯くしてお写ん歩マンは、哲学者になる。
そもそも名前というものは、「個」を便利に区別するために人間が「発明」したもの。 人間社会には必要不可欠なものであるが、自然界において名前という概念は必要ないのかもしれない。 もっと広く長く深い目で、生の本質に近づきたいのであれば、むしろ名前というものは必要ないのかも???
2024年09月06日15時29分
ペペロンターノさん 普通は、木でも動物でも人についても、その名前やそれについての知識を得ると、おおむね満足をする。 しかし、それで私はそのもの自体の何を知ったのだろうか。 それが持っている名や形、色、特徴、大小などの情報を知ったに過ぎない。 それが発している気配、迫力、冷暖、剛柔・・などなどについては、かすかに感じるだけで何も分からない。 衣服やアクセサリーではなく、存在そのものの本質を見極めたい。 せっかくこの世に生を受けたのだもの。
2024年09月08日09時02分
こんにちは。興味深く写真とキャプションを拝見しておりました。 >本質とは何だろう。 >根元に感じる存在感は おそらくですが本質は株でしょうか。 株元が元気でいる限り花、葉、茎、幹、根は何度でも再生でき、植物も苦境に陥った時、株を生かす為に他は犠牲にしているものと思っています。 私は部屋で蘭を育てておりますが、株元付近に声をかけております。 株元は根本であり、私も写真から力を感じた次第でございます。
2024年09月07日12時24分
ははあ、Zacky01さん、さすがビジネスマン。本質は株、と断じましたね。うむ。 ではあえて・・。 一本の木のidentityを求めるのならば、おっしゃる通りかもしれません。 しかし、その株とは何でできているのか。 その株は、何によって成立して(生きて)いるのか。 そもそも、その木は何なのか(本質)。 と、アリストテレスならその歩を進めます。 彼は、その株を2つに分けて考察します。 一つは質料(ヒュレー)、物質そのもののこと。 もう一つは形相(けいそう/エイドス)、他と区別されるそのものの本質。 株の形相と質料とが交流しあって、現実態(エネルゲイア/現実の姿)となる。つまり株となる。 とすれば、本質は形相か、ということになるが、質料と形相、両者が揃って現実態(そのもの)になるのであれば、片方だけでは本質と言えないのでは・・、という矛盾に陥ります。 ということになると、論理で本質を掴むのは無理なのではないか・・。 そこで東洋的思考法、瞑想、つまり感覚的把握が必要になる、と私は考えています。 だからこそ、そのものの存在を感じ取る力がその始まりだと思うのです。
2024年09月07日21時21分
こんばんは。 > つまり感覚的把握が必要になる、と私は考えています。だからこそ、そのものの存在を感じ取る力がその始まりだと思うのです。 哲学を更に深化させた深いお話しですね。アリストテレスのお話しをお聞きし、学生時代に哲学の授業で学んだ形而上学と「カントからヘーゲルへ」を思い出しました。 > 片方だけでは本質と言えないのでは・・、という矛盾に陥ります。ということになると、論理で本質を掴むのは無理なのではないか・・。 ググってみますと面白い本に出会いました。 東大文 アリストテレスの実体論における「本質」と「形相」 -『形而上学』ZH巻の構造と「質料」の問題-(岩田 圭一) https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2001/239.html#:~:text=%E4%BB%A5%E4%B8%8A%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%81%E3%80%8E%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6%E3%80%8FZH,%E4%B8%80%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%B5%90%E8%AB%96%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
2024年09月08日00時00分
Zacy01さん 岩田圭一氏の東大大学院博士論文のご紹介ありがとうございます。 これはアリストテレスの哲学(思考)についての考察で、存在そのものへの考究ではありませんね。 アリストテレスの思考は、やがて論理学(ディアレクティケー/アリストテレスの弁証法)として一般化されるが、論理学は本質に向かうための方法論に過ぎません。 アリストテレスの真骨頂は、やはり第一哲学(存在についての考察)にあります。 もの(存在)は、質料(物質)と形相(物質をものたらしめる働き/本質)の統合に依って初めて、もの(現実態)になる。(ならば形相は、存在の本質ではないのでは・・。これが私の疑問です) しかしこのことを論理立てて主張しても、理屈として理解できるだけで、見えもしないし触れることもできない。思考という方法ができる範囲はそこまでなのです。 だから哲学は、頭の中の学問ということになり、やがて自然科学という目に見える学問が登場することになります。 しかし、アリストテレスや師のプラトン、そのまた師のソクラテスなどの哲学法(愛知/Phirosophia)は、世界を探究するツールとして、論理(思考)だけでなく、自然学(第二哲学)や、直感的把握、瞑想的把握をも用いていたのです。 いつの間にか、それらは忘れられ、哲学は論理学のような認識になってしまいました。 現代の私たちは、世界中の認識方法を持ち得ます。私はそれらを総動員して、存在、とは何か、について取り組みたいと思っています。 そのことはつまり、この世とは何か、ひいては、私とは何か、ということを見出そうとする旅だと思うからです。
2024年09月12日13時49分
電動茄子
何となく納得
2024年09月06日15時17分