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韓国の公園(たぶんソウル子供遊園地)で見かけた蒸気機関車です 미카5 56(ミカ5-56) 朝鮮総督府鉄道ミカサ形蒸気機関車は、日本統治時代に使用していたテンダー式蒸気機関車の第5形式で1927年汽車製造のものと思われます。白磁の人「浅川 巧」さんが朝鮮総督府農商工務部山林課勤務時代、各家庭燃料確保で荒廃した多くの山々に植林事業を行っていた頃に、走っていたと思われます。
y.ozuさんの「手には人生が語られてい...」にコメント備忘録 ごはん一膳にしてでも家に帰りたい 重い言葉です。 誰でも住み慣れた家で最後の時を迎えたい気持ち分かるような気がします。 会社の創業者前会長(今も細々と連絡有る現在の会長の父親)が膵臓癌末期の時、付き添っていてどうすれば本人の気が安まるのか? 何故か病院までの途中にあった薬局でその頃はターミナルケア(終末医療)という言葉も知らなかったけれど、淀川キリスト教病院の発行した医療従事者向けの本を貸してもらった事もありました。やはり住み慣れた場所が一番落ち着くと記載されてた事を思い出しました。 深夜の病院で最後を看取りましたが、ドラマの瞬間でしか知りませんでしたが、死に際に立ち会えたのは後にも先にもその時だけ。 身内では事後報告ばかりで、家内の母親の葬儀にも海外出張中で帰国もままならずでした。 韓国の所長を務めていた韓国人の奥様の母親が危篤で、病院に夜駆けつけてももう意識は無く、峠を迎えようとしていました。翌朝訃報を受けてお通夜の席に工業団地の向かいのご主人と行った事もありました。 兄弟の勤務先が現代(ヒョンデ)や三星(サムスン)等の財閥系で豪華な花輪がいっぱい並んでいた事を思い出しました。 当時私の母親を亡くして間も無くの頃で、映画「おくりびと」が放映されており、往復の機内でまるまる一本前後に分けて行きと帰りに見ていて一人涙してました事、思い出します。
2024年12月21日09時31分
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明治期の山梨県八ヶ岳南麓に生まれ、日本の植民地となったばかりの朝鮮半島へ渡った浅川兄弟。 そこで眼にしたのは、統治国日本による朝鮮の文化・民族へのはなはだしい蔑(さげす)みの世界でした。 支配と抵抗の時代の中で兄弟は、朝鮮という国をあるがままに感じ、あるがままで接し、偏見から自由な位置で、兄伯教は、庶民が日常使う白磁の美しさと出会い、半島700ヶ所に及ぶ古陶磁の窯跡(かまあと)を丹念に調査・研究し、朝鮮陶磁を時系列でまとめあげました。 弟巧は、半島の荒廃した山々の緑化に尽くし、兄の白磁に対する想いを受けて、植林の為に分け入った先々で白磁の窯跡を見つけては兄に報告していた。市井の朝鮮人とよく交わり、庶民が日常使う木工品などのすぐれた美しさを知り、それを日本に伝えました。 巧は1931(昭和6)年に40才という若さで亡くなりましたが、朝鮮の人々の共同墓地に、朝鮮の人々の嘆きの中に葬られ、現在は朝鮮の土となって、墓参する日韓両国の人々に多くのことを語りかけています。 巧の業績と人柄を慕う韓国林業試験場職員の手によって碑が建てられました。 そこには「朝鮮の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と韓国語で刻まれています。 浅川巧の墓は日本人には長いこと知られないまま、韓国の人々によって永く守られてきました。韓国の人々、とりわけ故趙在明氏をはじめとする韓国林業試験場職員たちの理解と貢献があったのです。 北杜市浅川兄弟資料館資料より引用しています。
2024年02月09日16時38分