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*つづき しかし事態は、大政奉還で収まらなかった。 大政が奉還されても、朝廷には実際に政治を行う力は無かった。なにしろ265年もの間、幕府の上奏にイエスと答えてきただけなのだから。 そこで、政治の権限は朝廷にあるも、それを執行するのは引き続き将軍慶喜に委任する、という形になった。慶喜の狙いもそこにあった。形式上で大政が奉還されても、実際にはこれまで通り、幕府主導の公武合体政治が行われることになる。極めて穏やかな政権交代である。慶喜の思惑が形になった *下につづく
感謝: 5年前の Ⅰ の3に書き足す形で始めたものが、興に乗って一気にⅤの6まで行ってしまいました。 龍馬とお龍にスポットを当てたつもりですが、よく知られた歴史上の出来事ですから、背景描写にページを費やさざるを得ませんでした。その分読みにくくなったことでしょう。ご容赦ください。 この物語は、史実に沿ってはいますが、エピソード自体は創作です。 ほぼ1ヶ月にわたる連載写真掌編小説にお付き合い下さり、ありがとうございました。 また、写真サイトであるこのPHOTOHITO上でこのような試みをすることに違和感を覚える方もいらっしゃることは承知していますが、ここに書くことで創作の力を得ているのです。どうかご容赦ください。
2022年08月03日10時39分
しみじみと心和む夕景ですね。 長編を書き終えた yoshi.sさんのようです(´ω`*) 童話一つ書くにも 登場する虫さんや花さんの事を事前に調べたりと 書き始めるまでに時間を費やします。 直接お話しには出さなくても、理解しておくことが大切やなぁと思うので(^^ゞ yoshi.sさんは歴史上の登場人物の物語やから、史実に沿った背景描写を書くために すごく大変やったろうなと想像します。 じっくり読ませて頂きます。本当にお疲れさまでした(*^^*)
2022年08月03日15時17分
いずっちさん いたわって下さりありがとうございます。 楽しみと苦しみとが相半ばした1ヶ月間でした。 ご賢察の通り、歴史調べに時間と労力を使いました。 とくにこのこんがらかった幕末、納得がいかなければ書けません。そうか、となって初めて書き出します。そんな個別の事件がたくさんあるのです。 晴れ晴れとした今日は、海に行って7,000歩歩いてきました。 そうそう、いずっちさん、もしこれを読む機会があれば、お龍の京言葉について、訂正すべきところがあったら教えてください。お龍は御典医の娘。ちょっと上品な京言葉を話したと思います。
2022年08月03日16時21分
飛び入りでーす! 私も、起承転「結」で終わりにします。 楽ちん投稿、失礼でした!haha! ***** 慶応元年5月11日、以蔵は斬首された。同日に切腹した武市の最後は見事だったらしい。龍馬がそれを聞いたのは、江戸に向かう船上だった。右舷には太平洋の大海原。左舷には陸が見える。 「勤王党憎しとはいえ、長い間、拷問して打首とは、容堂様も酷いなされ様だな…」 「……!」知らせた者は言葉を継げない。 以蔵が行き方知れずになったこと、捕縛されたことは耳に入っていた。(一体何があったんや?)。龍馬は東奔西走の身だが、以蔵の最後があまりに哀れであった。 実は、勝の「君は人を殺すのをたしなんではいけない」の言外には、酒と女と金があった。以蔵の危うい面であった。龍馬にすれば(勝先生に預けたらなんとかなる!)という期待があったのだが…。 しかし、殺人刀活人剣(=せつにんとう・かつにんけん)をもって殺人剣に向かうのは、龍馬以外、難しかったのかもしれない。師弟の相性もあっただろう。 (すまんことをしたな以蔵。手向けの涙ちや!) 舳先に立った龍馬は波濤を見据えていた…。 完
2022年08月04日07時50分
今田三六さん 飛び入り、いらっしゃーい! 岡田以蔵は、人斬りを以って夜の舞台での役目を果たした。 思えば悲しい役どころでしたね。 4回にわたる以蔵譚、ありがとうございました。
2022年08月05日07時30分
yoshi.s
*上からのつづき 慶喜は、次の時代への新しい政治体制を模索していた。 天皇を頭に抱き、幕府が行政を行う政府となる。その行政府の中に、外様であろうと雄藩の力ある者を取り立てる。 薩摩の大久保や西郷が描いた、雄藩諸侯の議会制を目指す構想は頓挫した。 いったいなぜこんなことになった? 建白書を出した容堂に入れ知恵をしたのは後藤象二郎だ。その後藤に入れ知恵をしたのは誰だ・・。 龍馬は、新政府の構想を練っていた。 新しい時代へのイノベーションが必要だ。役職や立場ではなく、優れた人物本位の政府を作らなければならない。 龍馬は、各藩の有為な人材を探しては、新政府の役につけるよう後藤に依頼していた。 後藤は、大政奉還を容堂に進言したキイパーソンとして新政府実務の中心的役割を担うと目されていた。 龍馬は忙しく動いていた。夜明けが近づく夜会の中で。 慶応3年11月15日(1867年12月10日)、龍馬は京の醤油屋、近江屋に泊まっていた。近江屋は土佐藩士の集会場所になっていたのだ。 倒幕派だった中岡慎太郎の訪問を受けて、二人、会談中のことだった。 十津川(奈良南部)郷士と名乗る数人が店に押し入り、そのうち二人が二階に上がって行き、そこにいた龍馬と中岡を斬り伏せた。 頭を斬られた龍馬は、間も無く死んだ。享年31歳。 中岡は2日後に死んだ。享年29。 龍馬の訃報は、12月になってから長崎のお龍に届いた。 お龍は声を上げて泣いた。 夜会の花 了 2022.8.1
2022年08月04日17時22分