ホーム yoshi.s 写真一覧 写真掌編:続々々・夜会の花(龍馬異聞 Ⅳ)3 yoshi.s ファン登録 ユーザートップ 写真一覧 ギャラリー お気に入り ファン ファンになっているユーザーの写真 ファンになっている ファンになってくれている 写真掌編:続々々・夜会の花(龍馬異聞 Ⅳ)3 お気に入り登録36 815件 D E 2022年07月27日11時07分 J B
*つづき 6月の初め、龍馬とお龍は薩摩の旅を終え、下関に向かった。 長州が薩摩を通して購入していた蒸気船ユニオン号を長州に届けるためであった。 その頃すでに幕府の第二次長州征討が始まっていて、長州はユニオン号を必要としたのである。 ユ二オン号搬送の船長は龍馬であった。 龍馬は九州外回りの航路を取り、途中で長崎に寄り、小曽根乾堂にお龍を預けて、一路下関に向かった。 *下につづく コメント5件 yoshi.s *上からのつづき ユニオン号を長州に引き渡した龍馬は、高杉晋作の依頼によってそのまま船長を続け、幕府との戦いに参戦した。ユニオン号の操船は、龍馬たち亀山社中の乗組員でなければ行えなかったのだ。龍馬の最初で最後の戦さである。 幕府軍は10万の大軍を以って長州を攻めたが、兵たった3千5百の長州の近代化した武器、操船に敵わず、戦況不利のまま、その夏、将軍家茂は大阪城で病死した。享年21歳(満20歳)の若さであった。家茂に降嫁した皇女和宮は出家した。これもまた21歳の若さだった。 家茂の後、徳川宗家の跡を継いだ徳川慶喜は、大討ち込みと称して自ら出陣する意思を示したが、九州小倉藩の小倉城が落ちたのを聞いてこれを取りやめ、朝廷に願って休戦の詔勅を出してもらった。 幕府から派遣された勝海舟が、安芸の宮島で長州の井上馨らと会談して停戦の合意をし、幕府の軍は9月の中ほどに撤兵した。長州の一方的な勝利だった。 これによって幕府の権威は地に墜ちた。 その年の暮れになって第15代将軍に就任した慶喜は、幕府主導の公武合体によってその権威を取り戻したいと考えていた。しかし将軍就任後間もなく、気脈の通じていた孝明天皇が突然崩御した。後ろ盾を失った慶喜の政治の舵取りは難しくなったが、慶喜の施政能力は高く、自らの思う施策を推し進めた。その一つが兵庫(神戸)港開港である。京に直結する兵庫港の開港を幕府が行うことで、国家運営の中心は幕府であることを宣言をする機会となる。 慶喜は、水戸で育った七郎麻呂時代からその英邁さは知られていた。ここでその才能を遺憾なく発揮し始めた。 さて、長州での戦さが終わると、龍馬がユニオン号を長州に運搬したことが周知されて、龍馬の周りには、脱藩浪士や、勝海舟の旧門人、幕府の元水兵たちが集まってきた。龍馬はこの連中をまとめて、貿易や運搬、操舵術などを教える総合企業のようなものを組織して行くことに全力を挙げることになる。龍馬はユニオン号を駆って、下関へ、鹿児島へ、京、大阪へと飛び回った。 土佐藩は龍馬の活躍を高く評価し、翌年(1967年)になると、後藤象二郎などの取りなしによって、龍馬の脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭組織として認定した。これを機に亀山社中は海援隊と改称した。時を同じくして同様に脱藩を赦された中岡慎太郎は、陸援隊を組織した。 龍馬の海援隊は軍隊というよりも、むしろ商社に近いものだった。しかし中岡の陸援隊は、長州高杉の奇兵隊に範をとった完全な軍事部隊であった。ここに龍馬と中岡の視線の違いが見て取れる。 *つづく 2022年07月31日22時19分 写楽旅人 季節の花ですねえ、バックの車のボケ具合も美しい! 2022年07月27日11時18分 yoshi.s 写楽旅人さん 暈けてゆく背景は写楽さんの影響ですよ。 2022年07月27日12時12分 頂雅 夕方のしっとりした凌霄花も美しい! 2022年07月27日17時27分 yoshi.s 頂雅さん そう。夕散歩の時の凌霄花です。 もう少し光が欲しかったのですが、これも天の差配。そのままに。 2022年07月27日17時48分 新規登録・ログインしてコメントを書き込む コメントを書き込む 同じタグが設定されたyoshi.sさんの作品 最近お気に入り登録したユーザー popo7557 ファン登録 ma333ma ファン登録 コンサ ファン登録 いずっち ファン登録 マイスト ファン登録 *kayo* ファン登録 Zacky01 ファン登録 めいめい ファン登録
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*上からのつづき ユニオン号を長州に引き渡した龍馬は、高杉晋作の依頼によってそのまま船長を続け、幕府との戦いに参戦した。ユニオン号の操船は、龍馬たち亀山社中の乗組員でなければ行えなかったのだ。龍馬の最初で最後の戦さである。 幕府軍は10万の大軍を以って長州を攻めたが、兵たった3千5百の長州の近代化した武器、操船に敵わず、戦況不利のまま、その夏、将軍家茂は大阪城で病死した。享年21歳(満20歳)の若さであった。家茂に降嫁した皇女和宮は出家した。これもまた21歳の若さだった。 家茂の後、徳川宗家の跡を継いだ徳川慶喜は、大討ち込みと称して自ら出陣する意思を示したが、九州小倉藩の小倉城が落ちたのを聞いてこれを取りやめ、朝廷に願って休戦の詔勅を出してもらった。 幕府から派遣された勝海舟が、安芸の宮島で長州の井上馨らと会談して停戦の合意をし、幕府の軍は9月の中ほどに撤兵した。長州の一方的な勝利だった。 これによって幕府の権威は地に墜ちた。 その年の暮れになって第15代将軍に就任した慶喜は、幕府主導の公武合体によってその権威を取り戻したいと考えていた。しかし将軍就任後間もなく、気脈の通じていた孝明天皇が突然崩御した。後ろ盾を失った慶喜の政治の舵取りは難しくなったが、慶喜の施政能力は高く、自らの思う施策を推し進めた。その一つが兵庫(神戸)港開港である。京に直結する兵庫港の開港を幕府が行うことで、国家運営の中心は幕府であることを宣言をする機会となる。 慶喜は、水戸で育った七郎麻呂時代からその英邁さは知られていた。ここでその才能を遺憾なく発揮し始めた。 さて、長州での戦さが終わると、龍馬がユニオン号を長州に運搬したことが周知されて、龍馬の周りには、脱藩浪士や、勝海舟の旧門人、幕府の元水兵たちが集まってきた。龍馬はこの連中をまとめて、貿易や運搬、操舵術などを教える総合企業のようなものを組織して行くことに全力を挙げることになる。龍馬はユニオン号を駆って、下関へ、鹿児島へ、京、大阪へと飛び回った。 土佐藩は龍馬の活躍を高く評価し、翌年(1967年)になると、後藤象二郎などの取りなしによって、龍馬の脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭組織として認定した。これを機に亀山社中は海援隊と改称した。時を同じくして同様に脱藩を赦された中岡慎太郎は、陸援隊を組織した。 龍馬の海援隊は軍隊というよりも、むしろ商社に近いものだった。しかし中岡の陸援隊は、長州高杉の奇兵隊に範をとった完全な軍事部隊であった。ここに龍馬と中岡の視線の違いが見て取れる。 *つづく
2022年07月31日22時19分