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邦訳「ユージン・スミスに捧げる」 薔薇の花を添えて 作品は「楽園への歩み~ニューヨークの郊外」 写真を趣味にしている方はユージンスミス(写真家)を知っていると思うが・・・w 原宿竹下通りの裏のストリート
酔水亭さん コメントありがとうございます この「楽園の歩み」は原宿の某お店の壁に飾ってあったもので、その下に薔薇の花が植えられていましたので チョッと「ストーリー」を作ってみました。 水俣については下に書いた通りですが、日本とは因縁のある人生を送ったようですね。 アイリーンさんとは離婚後に日本で作品の管理をし写真展を開催しているようです
2021年02月18日23時04分
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ウィリアム・ユージン・スミス(1918~ 1978年)アメリカの写真家。 1957年から世界的写真家集団マグナム・フォトの正会員。 マグナム・フォトは1947年、数多くの著名な写真を撮影した報道写真家ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアらにより、写真家の権利と自由を守り、主張することを目的として、フランス パリにて設立された。 第二次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として派遣される。 沖縄戦で日本軍の砲弾により全身を負傷した。 51歳のときにニューヨーク、でアイリーン・スプレイグ(母親は日本人で父親は米国人)と同居する(アシスタント) ユージンと親交のあった元村和彦がユージンらに来日して水俣病の取材をすることを提案した。 1971年に来日しアイリーンと結婚した。 71年から74年までの3年間チッソが引き起こした水俣病と、水俣で生きる患者たち、胎児性水俣病患者とその家族などの取材・撮影を行った 1972年1月葉県市原市五井にあるチッソ五井工場を訪問した際水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち約20名が、 チッソ社員約200人による強制排除に遭い、暴行を受ける事件が発生した。ユージンもカメラを壊された上 コンクリートに激しく打ち付けられて脊椎を折られ、片目失明の重傷を負った[。 945年の沖縄戦での負傷の後遺症とチッソ五井工場での暴行による負傷が体調悪化に拍車をかけ、 激しい頭痛に悩まされる。 それでもユージンは撮影を続け、1973年4月には写真展「水俣 生―その神聖と冒涜」が開催された。 1974年10月スミス夫妻は3年間暮らした水俣市を去り、1975年5月にはアイリーンとの共著で、 写真集『MINAMATA』英語版の出版を果たし、世界中で大反響を呼んだ。 ユージンはアリゾナ州ツーソンで晩年を送り、アリゾナ大学で教鞭をとっていた チッソ社員からの暴行の後遺症による神経障害と視力低下により、 カメラのシャッターを切ることもピントをわせることもできなくなっていたが日本や日本人を恨むことはなかった。 "日本語版『写真集 水俣』が出版されたのは、ユージンの死後の1980年であった。(Wikipedia)から抜粋 " 沖縄戦の砲弾の爆風により全身を負傷しチッソの社員の暴行に合ったが、日本人を恨まなかったとはとても考えさせられた。 https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000038.000006149.html
2021年02月15日09時03分