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ベートーヴェン広場の直ぐ横に大きな公園が広がっています。 バウムシュールヴェルトヒェンBaumschulwäldchenという公園ですが、その歴史をひもとくことによってこの公園や周辺の音楽家通りの成り立ちとの関わりが分かってきました。 Baumschulwäldchenとはその成り立ちからして「育苗所の森」と訳せば良いかと思います・・・ 以下、コメント欄に続きます・・・
そこにベートーヴェン生誕75年記念行事が行われた1845年、この辺り一帯を今で言う新興住宅街にし、その一つの通りにベートーヴェンの名を冠したと言うのがことの起源のようですね。 当然、その後の発展に伴い、ベートーヴェンに縁のある音楽家の名を冠した通りがこの辺りに広がっていったようです。
2021年01月03日22時31分
ベートーベンは生きている頃、ウィーンでは自由主義で反体制を気取っていて政府から煙たがられていたようですが、ドイツでは、政権からどう見られていたのでしょうね。寧ろ帝国が崩壊しいてから、民間で露わに人気が現れたような気がします。
2021年01月04日20時29分
頑張れ!てんちゃんさん、いつもコメントありがとうございます。 なかなか難しい質問ですね・・・何分この辺りの歴史に疎いものですから(^^;ゞ とは言え、自分なりに少し整理してみました・・・ ベートーヴェンが1770年にケルン選帝侯の住むボンに生まれ、ハイドンに弟子入りしてウィーンに移住したのが1792年です。 この間は神聖ローマ帝国がまだ存在し、ボンのケルン選帝侯は健在ですが、フランス革命に端を発したヨーロッパの動乱によりライン川西岸、つまりボンも1797年にはナポレオン・ボナパルト率いるフランスによって占領されてしまいますね。 この辺りから神聖ローマ帝国は崩壊し1806年に消滅・・・ でもしっかり神聖ローマ帝国の首都を抱えていた領地はオーストリア帝国としてあのハプスブルク王朝が栄華を極め、その首都であるウィーンは平和・・・ ベートーヴェンはその平和で繁栄を極めているウィーンに居たことになりますね。 一方で、ベートーヴェンはそれまで宮廷や貴族に囲われて活動していた音楽家の世界から離れ、音楽を芸術へと昇華していったことから、正直金持ちから疎まれていたという話も確かにありますね。 しかし、その芸術性が一般庶民を含む多くの人々から認められていたというのが大筋のところなんでしょう。 ただし、相当の変人の扱いだったようですが、だいたい名を残す芸術の大家といわれる方々は一般人から見ると変人が多いのが世の常ですよね・・・(^_^; また、ウィーンは神聖ローマ帝国の首都でもあったのですから、ドイツの時の政権云々という見方では語れないのではないでしょうか。 何でもベートーヴェンがウィーンで亡くなった時、2万人もの人々が追悼に集まったということですから、権力云々ではなく芸術の域を全うしたのだと思いますが・・・ いかがでしょう・・・全くの私見ですけど(^^;ゞ
2021年01月05日01時24分
丁寧な説明ありがとうございました。 私も以下等のURLを見つけました。 https://ontomo-mag.com/article/column/beethoven-funeral-kagehara/
2021年01月17日01時17分
頑張れ!てんちゃんさん、こちらこそありがとうございます。 教えていただいたHP見て、全て読みました(^_^) なぁ〜るほど、σ(^_^)が書いたことにあまり間違いはなさそうですね、ちょっとホッとしています(^^ゞ ベートーヴェンについてはいろいろ情報がありそうですね。 ありがとうございました。
2021年01月17日21時48分
TR3 PG@
この当たりはボン城外で18世紀初期当時は雑木林や野原が広がっていたようです。 18世紀になってケルン選帝侯宮殿の庭師が宮殿の庭や街路樹の育苗を目的に選帝侯からこの地を与えられ、ここを切り開いたのが始まりだったようです。 ここに宮殿の庭師は家を構え、関係者の家がエンデニヒャー・アレーEndenicher Allee方向に建ち、選帝侯も好んでこの辺りに来ていたそうです。 つまり、この辺りは18世紀以降に開拓されたところで、この宮殿庭師に関係者が棲みついて広がったようです。
2021年01月03日22時31分