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朝の日に咲きこぼれけり山桜 うすくれなひの君のくちびる *つづき 佳夫と凛子は、次第に手応えを感じ始めて来た。互いに見せ合う写真も、おお、と思えるものが出て来るようになった。 何日かの撮影によって、二人の洞察の目は多少なりとも鍛えられて来たようだ。二人の撮影姿勢が、対象物の本質を見ようとするその一点に絞られていたからだろう。 *下につづく
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*つづき とは言っても、それほど簡単に本質に到達するはずもないし、何が本質かということを言えるはずもないだろう。しかし、ただ美しい色や形だけを撮って事足れりとしていたこれまでの自分と、今の自分とを比べれば、自らの視線が明らかに違って来たことを、二人とも自覚していた。 写真は、自分の目が見たものを撮る行為である、ということに気づいたのだ。 ならばまず、見える目を育てなければならない。それには、本質を見よう、と意識することだ。見ようとすることで、見る目が磨かれる。 これは、写真に限ったことではないだろう。 例えば音楽。曲を聴いてどう感じるかは聞き手の耳に依る。どんな耳を持っているかだ。 例えばワイン。どう味わえるかは飲み手の舌に依る。どんな舌を持っているかだ。 文章を読んでも、どう理解し、どう思うかは読み手の感じる力による。 写真を撮りながら二人は、そのことが分かって来た。そして同時に、相手がそのことを感じ取っていることに、互いに気づいていた。時々交わす数少ないことばがそれを証明していた。 「そうなんだ」。「そうだよね」 それぞれ感じていることを、言葉を介さなくとも分かる、という感覚は現実を超越した感じがする。二人はそれを楽しんでいた。 こと写真を撮っている間については、二人はもはやほぼ同化していた。 *つづく
2020年04月10日22時02分