yoshi.s ファン登録
J
B
静動一致の『会』が極まると、気はすでに満ちて、矢は自ずから放たれる。 矢を放つのではない。矢が放たれるのだ。これを『離れ』と言う。 射手は引いていた腕を大きく広げ、乙矢を持ったそのままにそこに居る。残心である。 体内の気が道場に広がる。 短い、しかし永遠の時が流れる。 やがて呼気とともに気が丹田に戻る。 一射が終わった。
弓道について初めてその動作と共に説明を付けて頂き、身の引き締まる思いがしました。 「会」が極まる ということに強く心を打たれました。 「会」の時は短いのでしょうが凝縮されたと考えると長い時間と思います。 短い、永遠の時が流れ、、、、、一射が終わった。 自分が見ている気になり緊張がほぐれました。
2019年03月22日09時29分
旅鈴さん うれしいご高評です。 おっしゃる通り、茶の湯は武の道、禅の道から生まれたもの。 根底に相通ずるものがあるのは道理です。 よく見抜かれました。さすがは笑美子さんです。(オーバーラップするのです。そう呼ばれるのはおいやですか?もしそうなら取り消します)
2019年03月22日12時23分
『会』に心をお止めになるとは、さすがmichyさんです。 名著『弓と禅』の著者、ドイツ人哲学者のオイゲン・ヘリゲルも、『会』からの『離れ』に悪戦苦闘したと述懐しています。それは会が極(きわ)まるということが分からなかったからです。 ほんの数秒。その中に永遠があるという神秘にふれることができれば幸いです。写真撮影でも十分に可能です。そう聞いて、michyさんなら「ああ、そうか」と、お思いになるかもしれない *なお、オイゲン・ヘリゲルは大正末期から昭和初期にかけて東北帝大に招かれ、哲学を講義しました。その折、弓聖、阿波研造師範の下で弓術修行を行い、後には五段を允可されています。
2019年03月22日13時01分
ジョニー森永さん おっしゃる通りです。 弓道は、阿波研造師範によって動禅となりました。 日本武道は研ぎ澄ませて行くと、多少なりとも禅的になりますね。
2019年03月23日23時24分
大きく手を広げたこの時間に大きな意味があったのですね。 これから見る目が違ってくると思います。 この度は身に余るコメントを頂戴し恐縮です。 お言葉に甘えてタグをつけさせていただきました。
2019年03月25日19時19分
旅鈴
簡潔な文章の中に、すべて述べられている。 小気味よく、すっと腑に落ちます。 離れ、残心、初めて目にする言葉ですが、 理解できます。 日本武道は、まさしく心身を鍛えるものですね。 茶の湯に通ずるものもあるかと。
2019年03月22日02時46分