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花の美しさ

花の美しさ

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    信頼はあやうい綱渡りではないか? 「美しい」という言葉は「美しい」しか意味しないのに。

    コメント3件

    ヒトミシリα

    ヒトミシリα

    「信」じるだけでいいのに、「頼」るから良くない。 花は美しいもの、という信頼を、この写真で裏切ったのでしょう? 汚らしい花も、花であります。

    2010年09月08日20時20分

    kometan

    kometan

     下手な文章になると思いますが、少し詳しい説明をしてみたいと思います。  私はここで、一般的に人が「花は美しいもの」と信じる事の内の人間的な面に、先ず、重点を置きたかったので「信頼」と書いたのですが、その人間的な感受性への信頼(とその反転としての不信)を成り立たせるための「神的なもの」を視野に入れて、言語と倫理についての自身の考えを進めて行くことの一環としてこの写真を挙げました。「神的なもの」とは、少しややこしい言い方になりますが、一般的或は道徳的価値の絶対性を反転させた価値の相対性を根拠付けている「隠れた」絶対性、と言ってもよいかと思います。  「一般的に」、高山湖の畔に咲く花は美しいもの、腐乱死体にわく蛆虫は醜いもの、鼻ちょうちんをふくらます子供は可愛いもの(者)、轟音を轟かす雷は怖いものであるとされていますし、人を殺す事、何かを盗む事、或は強姦する事は悪い事であり、川で溺れかけた子供を救助する事、電車でお年寄りや妊婦に席を譲る事は良い事であるとされており、幼児が言語を習得する過程においてこれらの感受性や規範,つまり美学的・道徳的価値観は大人から与えられる絶対性として現れます。このことは、「一般的な(社会的にまともな)」親が我が子にこの反対の価値観を教える(調教する)事が「出来ない」、という(現実における)事実によって確認できるかと思います。我が子に殺人を進める者は「親であって親でない」異常者として社会的に抹殺されることでしょう。人間というものが世界を認識する存在者であり、認識が世界における事物の言語化よってしか為し得ないとすれば、「人間となり得るもの」はこの「かくあるべし」という支配的で絶対的な価値観の獲得を経てはじめて人間と成る、といえます。また、言語の習得以前にあると思われがちな個人的な感受性、つまり個人の端的な実感の発露は、そのような公共言語の文法(言語使用のルール)の習得の後はじめて、自分と他人との微妙な差異に気付くことで可能となり、そしてそれは人生の初めには絶対的なものとして現れた社会によって相対的な価値観として「保証」されることになります。なぜなら、個人に絶対性を要請する社会(という観念)を構成する要素は、まさに差異性によって成り立つ個人であり、従って社会は必然的に格個人間の差異を保証せざるを得ず、社会における模範的な感受性や規範は相対的なものにならざるを得ないからです(もっとも、実際の社会においてはやはりマジョリティーとマイノリティーとの対立があって、マイノリティーは「自然と」社会から排除されていってしまうようですが)。また、個人に対応してそれを時代や国家にしてみても同様のことがいえることは現代では常識となっていますね。このような意味で社会は絶対的であると同時に相対的であるといえるように思います。  さて、言語習得の過程で絶対的であるとして教え込まれた感情や規範に関する言葉は、文法をマスターした「大人」によって具体的で個別的な事柄に向けられることで相対的な言葉に反転し、多くの人は、「美しい・醜い」や「良い・悪い」は状況によりその意味を読み込む「対象」が変わるため、そこに絶対性はないと思い込むことになるようです。しかし、「美しい」という言葉と「美しい」という意味との「関係」はどうでしょう。「美しい」という言葉によって「醜い」を意味することは「絶対に」出来ず、「醜い」という言葉によって「美しい」を意味することは「絶対に」出来ないはずです。「良い」は絶対「良い」であり、「悪い」は絶対に「悪い」ではないでしょうか。上辺だけで、「良い」は「悪い」である、と言ってみてもその言葉は無意味とならざるを得ません。そして、この言葉と意味の関係それ自体は決して言語化できず、実際の言語の使用によって端的に示されるだけであるため、その絶対性は先の社会的な絶対性とは次元を異にした「形而上学的」絶対性であります。初めに書いた「神的なもの」というのはこの「語り得ない」絶対性のことをいったつもりです。  なってなくて、論理性の不十分な文章をだらだらと書いてしまい、お恥ずかしくまた申し訳なくも思います。「信頼」とは何かについて、「信仰」との比較をしながら詳しく考察してみたいところなのですが、とても長くなりそうでご迷惑だと思いますから、とりあえず簡単に申しますと、「信頼」の対象が人間、或は人間的なものであるのに対して、「信仰」の対象は神仏である、と言えます。どちらの語も信じる対象は違えど、人が何かを「信じる」という点では共通していますね。それでは、そもそも「信じる」とは一体「何を」することなのか?についてもまたの機会にお話できればと思います。ただ、最後に私自身の「信じる」ということに対する「意見」を申しておきますと、(つづく)

    2010年09月10日00時28分

    kometan

    kometan

    (つづき)私にはそれは「思考」の停止であるように思われます。「思考」、或は「考える」ことの本質は「疑い、そして問う」ことにあると思いますが、「信じる」者はまさに「信じて疑わない」。私は人生において「考える」ことに最高の価値を置く者であります。  

    2010年09月10日01時05分

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