kometan
ファン登録
J
B
すでに有る「一般性」の再獲得にわざわざ躓いてみる。 「アッ、イヌ」 「イヌ?」 「イヌー!」 「ワンとなくのがイヌである」 「隣のイヌが夜中うるさい」 「ドーベルマンはイヌである」 「スヌーピーはイヌである」 「イヌはサルと仲が悪い」 「Dogは日本語でイヌ」 「これは、イヌと言うのだよ」 「イヌゥ~」 ・ ・ ・ う~ん......ダメだ。「犬一般」を知っていたはずなのに。一体それは何処にある? つづく...つもり。
コメントありがとうございます。 はい、やっかいなことに引っ掛かっています。私自身、自分を「変に」面倒くさいやつだと思います。ミナミの帝王のあの役者さんが正統派に思えてきて羨ましくなります。 最近は「私的体験」の可能性のこと等を考えています。ただ死ぬのが怖いだけなのですけどね。いや、むしろ本当に自分が死ぬかどうかわからない、だから死なないかもしれないという状態が怖いといった方がよいかもしれません。 私は大学で哲学の教育を受けた事がなく、記号論の詳しい内容についても解らないのですが、ヒトミシリαさんのおっしゃった通り、語の意味はそのつどの言語使用の現場(文脈)において個物に対して読み込まれる、ということは実感によって納得できます。ただ、私はあの「語り得ないもの」に対する憧れの気分が強いのでしょう、どうしても公的言語を超える?可能性に拘ってしまい、それを排除する賢明な考えに従えないでいます。と言っても、最後まで従うつもりなんかないのですけれど。 これと絡んで言語使用の正しさを判定する基準、或は規範の成立の問題も出てきますね。 ところで、話の脈絡が整っていなくて申し訳ないのですが、ヒトミシリαさんがおっしゃった「イヌとおぼしきもの」の「イヌ」を「ワタシ」に置き換えてみたらどうでしょう。「私」にとっては途端に、とても不気味な響きを帯びた言葉に変わってしまうのですが......。もし気を悪くされたとしたら、ごめんなさい。 具体的で的を射たコメントを頂けて、嬉しかったです。ありがとうございました。
2010年08月29日19時27分
気を悪くしてませんよ。ワタシに置きかえるなら仮面論ぽいな、と思いました。「ワタシ」はワタシを見る観客によって仮面を変える。家族に対して演じるワタシ、恋人に対して演じるワタシ、友達に対して演じるワタシ、ワタシに対して演じるワタシなどなど。本当のワタシなど、いないのかもしれません。ワタシワタシとカナでかいているとタワシにみえてきました。ちなみにワシタも哲学はやったことありません。 語りえないものは、無理に語ろうとせず、その周辺またはその裏側を語っていれば伝わるものかもしれません。 わたしが最近こわいのは、もっているものをどんどん奪われていくことです。この苦は生老病死に尽きます。つまり、最終的には命を奪われるのですが、その前に健康を奪われ、若さを奪われ、犬を奪われ、金を奪われ、肉親を奪われ・・・こうやって先々失っていくものを想像すると正気を奪われそうになります。しかし、奪われるものがなければしあわせかと申しますとそうではなく。失うもののないむなしさの方が一層つらいような気がしました。この悲しさは、失うものがある幸せという解釈。 語りえないものを語らぬつもりが必死で語って不細工なことをしてしまいました。失礼しました。
2010年09月01日09時52分
ペルソナのことをすっかり忘れていました。私はこの場では「kometan」という仮面で表れているのにね。20代の初め頃、アランの「幸福論」やその訳者の一人である中村雄二郎の著作が好きでよく読んでいたのですが、中村氏がペルソナをキーワードとして頻繁に使っていたことを覚えています。先程それについて調べていて、出典は明らかでありませんが、こんな文章を見つけました。 「仮面=ペルソナ とまったく無関係な真実の顔などというものがいったいあるだろうか。真実の顔とは、 それをとおして人間同士が内面的に響き合い、 心を触れ合うことができるような豊かな多義性をもった顔である以上、 そこにはすでに、積極的な意味での多くの仮面=表情が含まれているのである。 豊かな表情の喪失ということは、決して表面的な問題にとどまるものではない」 中村雄二郎 ただどうしても、様様に表れる仮面(意味としての世界)を成り立たせるための「主体」のことを、私は、考えてしまうのですが、いつかカントの言う「統覚」とウィトゲンシュタインの言う「形而上学的主体」とを踏まえて、ご迷惑でなければ、「私」とは何か、或は「誰」かについて私自身の言葉でもってお話してみたいと思います。 喪失と言えば、やはり、「時間」がなければそれもあり得ない、いやその喪失を可能にする?人生自体があり得ないと思いますが、そもそも「今」とは何か、また「今」と「過去・未来」との関係は一体どうなっているのか、についてもじっくり考えてみたいと思っています。幸も不幸も、「有る」の内で(「今」において)意味として創り出されるものではないでしょうか?いや...塞翁が馬とミネルヴァの梟。ニヒリズムを包み込むニヒリズムを包み込むニヒリズムを.....。分りかけてきた...いや、ダメだ。価値によらない事を語る「価値」をのり越えようとする、ことの価値。 たわしって、いや私ってやっぱり、たいして論理的でもないくせに抽象的で理屈っぽく、面倒くさいでしょ?不細工なのは、私です。 必死で語ってくれたコメント貰えて嬉しかったです。それでは、また。
2010年09月01日17時36分
中村雄二郎さんの言葉、なんてややこしいんだ。五回読んで、やっと主語述語の整理がついたくらいです。笑 あなたの言葉でぜひ、きかせてください。迷惑なんてとんでもない。 喪失について、時間という要素があることを忘れていました。ちょっと冷静になれた気がします。 一日のうちでもいろんな仮面をかぶって過ごしておられることとおもいますが、理屈っぽくて怪しさ満点のkometan仮面がわたしのなかのあなた。ひょっとして本当に死神と会話しているのかと思わせるほど変なことばでつくられたあなたの仮面が、わたしはけっこう好きであります。
2010年09月03日21時18分
背徳のkometan仮面は普段、世に言う普通の負け組み生活者の覆面をかぶっています。ただ、大事な問題はかぶっている仮面の種類の如何ではなく、様々に表れ得る仮面を「私」は如何にして「今」において選択しているのか、いや、はたして選択という「行為」は可能であるか、つまり自由意志は意味を持つのか、それともそれは妄想として無意味であるのか、という点にあるように思います。 これからも、考え考えしながら私の怪しい言葉を吐いていきますね。 それでは、また。
2010年09月03日22時39分
ヒトミシリα
記号論かな?やっかいなこと考えてますね。 ワンと鳴くインコもいれば、夜中うるさい隣の住民も、ドーベルマンという名の人間や、へたくそが描いたヘチマみたいなスヌーピー、サルと仲の良いイヌも、Dogは醜女をあらわすこともあるし、「イヌと呼ばないで、この子は○○○ちゃんという家族なの!」と否定する愛犬家もいます・・・ イヌ一般ひとつとっても、漠然としていますよね。 もう、自信ないから「イヌとおぼしきもの」くらいでいいんじゃないっすかね。
2010年08月29日12時37分