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五箇山は江戸時代には加賀藩の硝煙(火薬)隠れ産地として秘密裏に管理されるとともに、政治犯の流刑地となっていました。 1667年に初めて流人としておくられてきたと伝えられています。 以来明治維新まで150人余りが流刑で五箇山へ送られたそうです。 流刑地は、切り立った崖を挟んで庄川右岸の集落で、流人の逃亡を防ぐため庄川に橋を掛けさせず一人では往来できない篭の渡しを使わせていたそうです。 そのなごりとして「篭度(かごわたし)」という地名も残っています。
またまた勉強になります。ちょっと信じられない風習と言いますか、こんな寒いところで、もし暖がなければ先ず一冬持たないのではと思います。未来に残したい情景ですね。有り難うございます。
2012年01月13日22時43分
やや高い所からのアングルで落ち着きがありますね。 歴史的に重要な意味を知り、一度だけの訪れでしたが、愛着倍増です。 今度、行く時には視点を変えねばなりませんね。 その節はよろしく。
2012年01月14日07時15分
hatto06さん、コメントありがとうございます。 今回もちと長めのうんちくにお付き合いいただきありがとうございます。 流刑小屋、もともと全国中にあったようですよ。 ただ、後世に形として残ったのがここ五箇山だけのようです。 さすがに寒さに耐えるようにはしていたと思いますが、現代からは想像も出来ない厳しさは確かにあったでしょうね。 たぶん、現代人はもたないでしょう(^_^;
2012年01月16日18時05分
楽太郎さん、コメントありがとうございます。 流刑でしかもこんな小屋に禁固となると、死刑に近い扱いかもしれませんね・・・。 流刑人は侍が多かったようで、暖をとる布団ぐらいはあったようですよ。 もっとも、ストーブなどのような暖をとるような器具も無い時代ですから、皆さん根性で冬を過ごしていたのではないでしょうか・・・。 ひ弱な現代人なら絶対に耐えられないでしょうね(^_^;
2012年01月16日18時14分
宮爺さん、コメントありがとうございます。 行かれたことがあるのでお分かりと思いますが、ここ、結構きつい階段の途中にありましたよね。 実は・・・もっと近づこうとしたのですが、消雪水が凄まじい勢いで階段を流れ落ちており、下からは断念し、上からと思ったのですが、やはり滝のような消雪水に途中で断念してパチリしたものです(^_^; 雪のある冬に見ると、より厳しさが伝わってきますよね。 σ(^_^)もよく経験するのですが、その土地の歴史を知った上で訪れるとまた違った視線で撮影できますよね。 今度お越しの節はご連絡いただければご案内しますよ(^.^)
2012年01月17日22時32分
YSKJIJIさん、コメントありがとうございます。 はい、なんでも日本各地に同じような流刑の小屋があったようですが、実物が残っているのはここだけだそうです。 もっとも、もともとあった小屋は雪で倒壊し、今のは再現されたもののようです。 仰るように、このような環境では命を落とした流人もいたでしょうね・・・。
2012年01月17日22時33分
mimiclaraさん、コメントありがとうございます。 はい、相当厳しいですね(^_^; 監視するために格子の戸になっているので、中の気温は外と同じだと思われます・・・。 たぶん、防寒のための布団や着物は与えられていたでしょうが、火の気は無いでしょうし・・・。 もっとも、現代人の我々から見たら昔の人は強かっただろうと思いますが。 夏・・・確かに涼しいですよね(^_-)
2012年01月17日22時41分
小さな家だと思ったら、そのような歴史あるものでしたか。 今年のこの豪雪の中では、その厳しさも更に伝わる気もします。(¨;) でも、昔は雪ももっと多かったんですよね。
2012年01月18日10時46分
hisaboさん、コメントありがとうございます。 はい、家ではなく小屋なんですよねぇ・・・。 こんなところに監禁されていた当時は想像することさえできません。 仰るように、昔はもっと積もったでしょうし、まともな除雪もできなかったでしょ うね。 もっとも、雪に埋もれたほうが暖かいともいえるようですよ。
2012年01月21日19時43分
TR3 PG@
今回もちょっと長いうんちくに少しお付き合いください。 流刑小屋には集落内に限って出歩ける「平小屋」、一歩も外へ出歩けない「お縮小屋」、小屋の中に更に狭い檻を作って閉じ込める「禁錮」の3種類あったそうで、この小屋は「お縮小屋」と思われます。 大きさは8畳もないでしょう・・・。 入口には厳重に鍵がかけられ、板戸には食事を差し入れる小さな穴が開いています。 なお、流人は一般的な犯罪者ではなく政治犯が主で、どちらかというと反体制派のインテリ層だったようです。 この雪深い冬はさぞかし厳しい寒さに耐え忍んでいたことでしょう。 もちろん、明治以降は、流刑の制度がなくなりました。 この流刑小屋は、前出の「五箇山 雪深き山里 重文・村上家」の対岸にあり、今では立派な橋が架かって気軽に行き来できますが、その間には深い谷があり、その昔はもちろん橋もなく一般的な行き来が禁じられていたようです。
2012年01月13日22時33分