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本流の庄川と支流の利賀川の合流する地点は双竜湖と呼ばれている景勝地です。 あいにく今回は上流側からの撮影なのでその全容は分かりづらいのですが、船が下っているのが庄川本流で、橋の遺構の向こう側から右側が支流の利賀川です。 小牧ダムが出来る前、この地点は深い渓谷で激流が渦巻き、竜が住んでいると言われていました。 上流には越中五箇山の一つ利賀村があり、藩政時代にはすでにここに吊り橋が架かっていたそうです。 (続く)
素晴らしいキャプション有難うございます。浅野総一郎さんが富山のご出身だとは知りませんでした。現在でも素晴らしい自然を魅せて頂いていますが、ダムが出来る前は凄い自然があったのでしょうね。勉強になりました。有難うございました。
2012年01月05日22時12分
またまた勉強になりました。 キャプション読みながらおおきくしてみましたが おひさまが向こうの斜面に当たってるんでしょうか 奥行き間が凄いですね。 と同時に一寸悲しくもありです。
2012年01月05日22時12分
hatto06さん、コメントありがとうございます。 浅野総一郎は富山県氷見の出身なんですよ。 σ(^_^)の家の近くの公園に銅像が庄川を眺めるように建っています。 ダムが出来る前・・・もちろん私はまだ生まれていませんが祖父からいろいろ聞いた覚えがあります。 当時のダムはドイツの技術者を招いて建設したそうですが、祖父は「m」を「尺」に変換して作業者に伝える役をやっていたそうです。 今では自然に溶け込んだ景観ですが、当時は相当自然破壊になったようですよ・・・。
2012年01月07日19時55分
YSKJIJIさん、コメントありがとうございます。 この日は雪が降らなかったものの、晴れと曇りがめまぐるしく変わっていました。 お察しの通り、前方の山の斜面にうっすらと日が差した情景です。 庄川峡の昭和初期の歴史は今の景観からは想像も出来ない凄まじいもだったと祖父から聞いてます。 現在新聞で話題に上がる八ッ場ダム以上のドタバタ劇があったようですよ。 今日、雪の降る中、この場面の反対側から写真を撮ってきました。 後日upしたいと思っていますのでお楽しみに♪
2012年01月07日20時04分
宮爺さん、コメントありがとうございます。 2月に五箇山に来られたことがあるのですね(^.^) 一昨年の2月と言えば、結構雪深かったのではないでしょうか・・・。 五箇山、白川郷が世界遺産になってから道路が整備され、除雪も見違えるほど良くなりました。 今では東海北陸道で気軽に行けるようになりましたものね。 一方で、東海北陸道が開通したことで、富山側の五箇山への観光客がめっきり減ったようです。 ほとんどの方々が、IC近くの岐阜白川郷に行かれて、そのまままた高速で・・・というパターンになっているようです。
2012年01月07日20時27分
英作さん、コメントありがとうございます。 庄川峡の一番美しい(と、自分では思っています)所です♪ ここは是非船に乗っていただきたいところですね。 また、是非川沿いのドライブもです。 が、東海北陸道が開通してから、めっきりと交通量が減りました。 皆さんサッサと高速でトンネル越えですからね。 余裕があれば是非寄って欲しいところです。 道は良いですよ、ただしくねってますけど(^_^;
2012年01月07日20時52分
irikunさん、コメントありがとうございます。 綺麗なところですよ。 是非、機会があれば世界遺産の五箇山、白川郷と絡めて来てみてください♪ その時はこの遊覧船をお忘れ無くデス(^.^)
2012年01月07日22時22分
hisaboさん、コメントありがとうございます。 はい、吊り橋の橋塔とアーチ橋が残っています。 ここまでは道も廃道になっているため簡単にいけないようですが、なんと何方かが探検されてその歴史もひもといた立派なHPをつくられていました。 この時はちょうど順光の薄日が差し、気温も上がって雪も落ちたのでしょう、モノトーンの世界からカラーの世界に変わっていました(^.^)
2012年01月08日11時49分
TR3 PG@
(続き) 庄川は昭和の初期から電源開発が進み、特に大都会周辺の工業地帯への電力供給を目的に浅野総一郎(浅野財閥創設者 富山県出身)が強力に水力発電事業を推し進めてきました。 その中でもこのダム湖をつくっている小牧ダムは昭和5年に完成した当時東洋一を誇る巨大ダムでした。 このダム建設により、あの竜が住むと言われた庄川本流と利賀川の合流地点に大きな二股のダム湖が出現し、その名が双竜湖と名付けられたようです。 そして昭和の初期に当時としては最新鋭の技術で吊り橋が架け替えられたのが、写真に写っている旧利賀大橋です。 ところが、時代と共にモータリゼーションが発達し、別の地点からの道路が整備され、今では廃道、かつ吊り橋も主橋を残すだけとなっています。 以上、大雑ぱくな概要でしたが、この庄川の電源開発には戦前日本の産業抑揚の歴史が凝縮されており、歴史に残る一大事業が繰り広げられたいたようです。 その過程で、自然破壊はもとより、古来営まれてきた五箇山という山深い里での人々の生活にも大きな爪痕を残して行ったようです。
2012年01月05日21時57分