ホーム komaoyo 写真一覧 古民家カフェ komaoyo ファン登録 ユーザートップ 写真一覧 ギャラリー お気に入り ファン ファンになっているユーザーの写真 ファンになっている ファンになってくれている 古民家カフェ O 写真展「午後の光」(2025年10月開催)参加作品 お気に入り登録236 337 2025年10月27日07時14分 J B
ポリプロピレンやプラスティック樹脂製は見かけても今は殆ど見なくなった「特別生牛乳」と書かれた木箱の牛乳受払箱。 右横のフラップ(板)が開く構造で、配達の方が飲み終えた牛乳瓶と中身の入った牛乳瓶とを毎朝入れ替えてくれる通函でした。昭和少年の憧れ! スーパーカー自転車「エレクトロボーイZ」が世に出た頃の物でしょうか。 コメント1件 komaoyo 特別牛乳の成分規格 ・無脂乳固形分 8.5%以上 乳脂肪分 3.3%以上 (牛乳の場合は無脂乳固形分 8.0%以上 乳脂肪分 3.0%以上) 特別牛乳の製造方法基準 ・特別牛乳搾取処理業の許可を受けた施設で搾取した生乳を処理して製造すること。 ・殺菌する場合は保持式により摂氏63度から摂氏65度までの間で30分間加熱殺菌すること。 生乳をそのまま製品にできる特別牛乳は、搾乳と製造がセットです。牧場で搾乳された、搾りたての生乳は牧場にある工場ですぐに製造されます。 搾乳からパックに詰められるまで外気に触れさせないことで、菌が入りづらい衛生管理が可能となります。 現在では、無殺菌の特別牛乳は北海道・中札内にある「想いやりファーム」のみです。 太田牧場とは 発足は大正11年。以来80年に渡って商われた、東淀川のローカル銘柄。平成15年に市乳事業より撤退、ブランドは消滅している。創業家は、洋種牛育成の盛んな故郷の生産地・岡山から、消費地・大阪へ直接乗り出し、搾乳販売で身を立てた成功例だ。 ◆岡山から大阪へ・岡崎牧場に学ぶ 初代・太田武太氏は岡山県上道郡の出身。当地方は明治中期に牛飼いが定着、京阪神の牛乳屋に対する乳牛供給地帯に発展。商売の有利を知ると、自ら大阪・神戸に出て搾乳販売を試みる人が多く、都市部での起業は数十名に及んだ。 武太氏も牧場経営に将来を見い出し、大正8年に来阪。同郷の先駆者に縁を求め、東淀川区十三西之町の岡崎牧場(⇒岡崎牛乳)で約3年間の住み込み働き。同11年、同区西大道町に独立を許され、ここに太田牧場が成立する。 ◆太田さん三兄弟・大阪乳業界に名を馳せる 武太氏の兄・久七氏は、遡ること明治38年に大阪を目指し、やはり岡崎牧場に寄寓。10年間の下積みを経て大正2年に独立を果たしている。当初は中津町、のち中河内郡小坂町(現・東大阪市)へ移転、牛乳の製販を軌道に乗せた。 長兄・柾惠氏は大正7年、三嶋郡吹田町(現・吹田市)に販売店を開業。恐らく原料乳は久七氏の自営牧場ほか、外部仕入れで事業を確立。翌8年、武太氏が大道町に牧場を構え、三兄弟は大阪の街に揃って成功を収める格好となった。 戦後経営が続くのは、本項の太田牧場のみ。兄弟同士の連携はあったはずで、商売は合流の形を採ったのかも知れない。また武太氏は岡崎牧場の主・岡崎趙七氏の長女を妻に迎えた。両家の縁も一層浅からぬものがあっただろう。 ◆戦後復興と急速な発展 武太氏の太田牧場は、昭和11年には100頭飼いの規模。商いが順調に伸びた様子をうかがえる(同時期、久七氏は約80頭を飼育)。戦中、物資欠乏や企業統合で著しい衰退に見舞われたことは想像に難くないが、この間の仔細は不明。 のち昭和37年の記録を見ると、飼養頭数200頭の陣容をもって完全復活。自家搾乳での賄いは4割が限界、原料乳の過半を附近の酪農家から追加調達の大盛況。戦後、乳製品需要の増加に乗って飛躍的に発展したと分かる数字だ。 ◆牧場の郊外移転・特別牛乳の廃止 大阪市内は宅地化が進み、乳牛飼育は臭気・糞尿処理の問題で難しくなっていく。県当局と畜産組合は昭和42年、都市牧場の郊外移転先として枚方市穂谷に畜産団地を完成。間もなく太田牧場の牛もここへ移り、創業地には工場だけが残った。 往時は普通牛舎4棟、特別牛舎1棟を市内ミルクプラントのそばに置き、大阪で唯一の種類別:特別牛乳も生産されたが、牧場移転を契機に廃止。ラインナップ上は通常の牛乳、「太田牧場低温殺菌」に切り替わった。 ◆市乳事業から撤退・ブランドは消滅 太田牧場は府下屈指のローカル銘柄に育つ。地元学校給食の定番、宅配網は晩年まで8市5区・計26店舗が営業。今も古い木製受箱が各エリアに昔日の面影を残す。 漂流乳業より引用させていただきました。 2025年10月27日07時33分 同じタグが設定されたkomaoyoさんの作品 最近お気に入り登録したユーザー jacksan ファン登録 体育委員長 ファン登録 横濱Local №82 ファン登録 Yoeko ファン登録 主任 ファン登録 白石岳男 ファン登録 インド人 ファン登録 湘南シーガルズ ファン登録
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特別牛乳の成分規格 ・無脂乳固形分 8.5%以上 乳脂肪分 3.3%以上 (牛乳の場合は無脂乳固形分 8.0%以上 乳脂肪分 3.0%以上) 特別牛乳の製造方法基準 ・特別牛乳搾取処理業の許可を受けた施設で搾取した生乳を処理して製造すること。 ・殺菌する場合は保持式により摂氏63度から摂氏65度までの間で30分間加熱殺菌すること。 生乳をそのまま製品にできる特別牛乳は、搾乳と製造がセットです。牧場で搾乳された、搾りたての生乳は牧場にある工場ですぐに製造されます。 搾乳からパックに詰められるまで外気に触れさせないことで、菌が入りづらい衛生管理が可能となります。 現在では、無殺菌の特別牛乳は北海道・中札内にある「想いやりファーム」のみです。 太田牧場とは 発足は大正11年。以来80年に渡って商われた、東淀川のローカル銘柄。平成15年に市乳事業より撤退、ブランドは消滅している。創業家は、洋種牛育成の盛んな故郷の生産地・岡山から、消費地・大阪へ直接乗り出し、搾乳販売で身を立てた成功例だ。 ◆岡山から大阪へ・岡崎牧場に学ぶ 初代・太田武太氏は岡山県上道郡の出身。当地方は明治中期に牛飼いが定着、京阪神の牛乳屋に対する乳牛供給地帯に発展。商売の有利を知ると、自ら大阪・神戸に出て搾乳販売を試みる人が多く、都市部での起業は数十名に及んだ。 武太氏も牧場経営に将来を見い出し、大正8年に来阪。同郷の先駆者に縁を求め、東淀川区十三西之町の岡崎牧場(⇒岡崎牛乳)で約3年間の住み込み働き。同11年、同区西大道町に独立を許され、ここに太田牧場が成立する。 ◆太田さん三兄弟・大阪乳業界に名を馳せる 武太氏の兄・久七氏は、遡ること明治38年に大阪を目指し、やはり岡崎牧場に寄寓。10年間の下積みを経て大正2年に独立を果たしている。当初は中津町、のち中河内郡小坂町(現・東大阪市)へ移転、牛乳の製販を軌道に乗せた。 長兄・柾惠氏は大正7年、三嶋郡吹田町(現・吹田市)に販売店を開業。恐らく原料乳は久七氏の自営牧場ほか、外部仕入れで事業を確立。翌8年、武太氏が大道町に牧場を構え、三兄弟は大阪の街に揃って成功を収める格好となった。 戦後経営が続くのは、本項の太田牧場のみ。兄弟同士の連携はあったはずで、商売は合流の形を採ったのかも知れない。また武太氏は岡崎牧場の主・岡崎趙七氏の長女を妻に迎えた。両家の縁も一層浅からぬものがあっただろう。 ◆戦後復興と急速な発展 武太氏の太田牧場は、昭和11年には100頭飼いの規模。商いが順調に伸びた様子をうかがえる(同時期、久七氏は約80頭を飼育)。戦中、物資欠乏や企業統合で著しい衰退に見舞われたことは想像に難くないが、この間の仔細は不明。 のち昭和37年の記録を見ると、飼養頭数200頭の陣容をもって完全復活。自家搾乳での賄いは4割が限界、原料乳の過半を附近の酪農家から追加調達の大盛況。戦後、乳製品需要の増加に乗って飛躍的に発展したと分かる数字だ。 ◆牧場の郊外移転・特別牛乳の廃止 大阪市内は宅地化が進み、乳牛飼育は臭気・糞尿処理の問題で難しくなっていく。県当局と畜産組合は昭和42年、都市牧場の郊外移転先として枚方市穂谷に畜産団地を完成。間もなく太田牧場の牛もここへ移り、創業地には工場だけが残った。 往時は普通牛舎4棟、特別牛舎1棟を市内ミルクプラントのそばに置き、大阪で唯一の種類別:特別牛乳も生産されたが、牧場移転を契機に廃止。ラインナップ上は通常の牛乳、「太田牧場低温殺菌」に切り替わった。 ◆市乳事業から撤退・ブランドは消滅 太田牧場は府下屈指のローカル銘柄に育つ。地元学校給食の定番、宅配網は晩年まで8市5区・計26店舗が営業。今も古い木製受箱が各エリアに昔日の面影を残す。 漂流乳業より引用させていただきました。
2025年10月27日07時33分