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孤高の人も通った馬の背

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    須磨アルプスは、新田次郎の小説「孤高の人」でお馴染みの加藤文太郎氏がトレーニングに通っていたところでもあります。

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    新田次郎の小説「孤高の人」でお馴染みの加藤文太郎氏 標高約700メートルの摩耶山や標高約930メートルの最高峰など十数峰の山越えが待ち受ける過酷なこの〝六甲全山縦走路の生みの親〟が、兵庫県浜坂町(現在の新温泉町)出身の登山家、加藤文太郎(1905~1936年)だ。 文太郎は1905年、浜坂町で生まれ、地元の尋常高等小学校を卒業後、三菱内燃機神戸製作所に就職。神戸で働き始めた彼は1923年頃から登山を始めるが、この登山のトレーニングのために彼が選んだルート。 加藤文太郎は1905年3月11日に兵庫県の新温泉町で生まれ、大正から昭和にかけて活躍し、冬季の槍ヶ岳単独登攀など多くの登山記録を残した登山家でした。加藤文太郎の山行の多くは単独行でしたが、すべてが単独行というわけではありません。 岩登りのエキスパートである吉田富久とパーティを組んで前穂高北尾根を登攀するなど、吉田富久とは数年来のパートナーでした。新田次郎の小説「孤高の人」では吉田富久と北鎌尾根に行ったことが遭難の原因のように書かれていますが、事実は違うようです。 加藤文太郎は1936年1月3日に吉田富久とともに肩の小屋(現在の槍ヶ岳山荘)から北鎌尾根に挑むも、そこで猛吹雪に遭って消息を絶ってしまいました。悪天候や豪雪のため捜索は困難を極め、2人の遺体が発見されたのは4カ月後の4月17日のことでした。 加藤文太郎は千天出合から天上沢側に500m登った付近、吉田富久はさらに200m上で発見されています。2人の発見された場所があまり離れていないこと、吉田富久の埋もれていた場所には目印としてピッケルが立っていたことから、最期まで2人の間は強い絆で結ばれていたことがわかります。 高田測候所の手書きの観測記録から、加藤文太郎が消息を絶つ前日の1月2日の最深積雪(1日の中で最大の積雪深さ)は45cmでしたが、1月6日には約140cmとなっていて、1mの新雪が積もっています。 加藤文太郎が1月3日に消息を絶った後、6日までに大量の雪が積もり、その後も14日以降に再び冬型気圧配置が強まって22日にかけて積雪が増えたことがわかります。このような大量の積雪があったため、加藤文太郎たちの遺体は雪の中に深く埋もれていまい、同年4月17日まで発見されることはなかったのです。 その答えは北極を中心とする上空の気圧配置にありました。 北極の寒気が、欧州、北米、アジアの三方向に放出されている様子がわかると思います。これが「三波型」と呼ばれる気圧配置です。 実は1963年(昭和38年)1月の薬師岳遭難事故の時もこの「三波型」の気圧配置になっていました。1963年は三八豪雪が起きた年です。1962/1963年の冬も、ラニーニャ現象は起きていませんでした。ともに寒波や豪雪の原因はラニーニャ現象だけではないということを示すよい事例と思います。

    2025年10月21日16時58分

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