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善光寺、本堂の端にある半鐘(大きさからすると梵鐘ではないと判断しました)。 風に揺れる奉納幕に対し微動だにしない釣鐘の重厚さを感じました。 見ていると自分の煩悩が少しずつ消えていくようでした。
こんばんは。 風に揺れる奉納幕は動で半鐘は静と言う事ですね! わたしも煩悩が少しずつ消えていく境地に成りたいものです。 幾つになりましても煩悩から逃れられる気がしないです(笑) ありがとうございました。
2025年10月15日19時59分
こんばんは! 鐘の配置、撞木の配置、左側の真っ白な膜の配置を、きちんと計算して置かれているように思います。 幕が少し動いているのもいいですね。 10数年、年越し座禅会に参加しており、大晦日の11時から年が明けるまで座り、その後みんなでお茶を飲みながら1年の反省をするのですが、その座禅をしている時に、お寺のの鐘がなります。 座って聞いていると、無にはなれませんが、とても気持ちがいいです。 このような静寂を感じる作品は大好きです。
2025年10月15日20時08分
Fur38さん こんばんは。ありがとうございます。 私も頭は煩悩でいっぱいです。 でも、このパワースポットが心を浄化していくのだと思います。この瞬間だけは何か気持ちが軽くなった気がしました。
2025年10月15日20時37分
PEGA*さん こんばんは。ありがとうございます。 風になびく奉納幕に対して全く動じない釣鐘にしばし見入ってしまいました。 すると少しだけ煩悩が消えた気がしました。 しかし普段は常に煩悩でいっぱいです(笑) でも煩悩こそ生きる原動力のような気がします。
2025年10月15日20時40分
Baru(バル)さん こんばんは。ありがとうございます。 ここは気に入った場所で少しの時間構図を練って思い通りになるまで何枚も撮りましたが結局1枚目が最も良かったです。 年越し座禅会は良いですね。過去を振り返り反省できるということは既に未来へ向かっているということだと思いますので清々しい気分になるのではないでしょうか。 私もここをしばらく眺めていると肩の荷が少しずつ下りていくような気がしました。
2025年10月15日20時44分
こんばんは。 人は殆どの人が煩悩の塊かも知れませんね。 それが生きている意味なのかもしれないとも思えてきましたが、心を浄化できればものの見方も変わるのでしょうね。 釣鐘の音が消し去ってくれるのでしょうか...
2025年10月15日21時10分
konabe6303さん こんばんは。ありがとうございます。 煩悩こそ生きる原動力だと思っています。 年齢や環境に応じて必要な煩悩は変わり、要らなくなった煩悩を捨てていくと気持ちが安らぐのではと思います。 ここに立ってそんなことを考えていました。
2025年10月15日21時21分
タイトルは「静と動」とありますが、わたしにはこの画を通して「音」を感じました。 風にはためく幕の音、そして半鐘の音。 これは半鐘とのことなので少し高い音色なのでしょうね。
2025年10月15日22時37分
HAMAHITOさん こんばんは。ありがとうございます。 なるほど、そのような見方もあるのですね。 現場はそよ風程度であまりにも静寂だったのですが、画から感じ方が様々というのは勉強になります。 この日は特別な行事はなく、この鐘が鳴ることはなかったのですが梵鐘に比べると高い音色であることは間違いないでしょう。
2025年10月15日22時55分
こんばんは。 なるほど釣鐘の重厚感が幕の揺らぎと対比して良く感じられます(^^) また、木材、鉄、布の質感対比も面白いと思いました。 煩悩しかないような私ですが、、すべて浄化されると私が無くなってしまうかもしれません(笑) 宜しくお願い致します。
2025年10月15日23時57分
おはようございます。 この切り取り方は思いつきません。奉納幕がなびく様を「動」とした表現に脱帽です。感度が高くないと見過ごしますし、タイトルも思いつきません。作品を拝見して、太陽風に押されて飛んだイカロスを思い出しました。(^^)
2025年10月16日07時35分
TU旭区さん こんにちは。ありがとうございます。 まず釣鐘に目が行きましたが幕が揺れる姿に気づき面白いシーンだと感じました。 そうですね、質感もそれぞれで面白いですね。 煩悩こそ生きる原動力だと思います。煩悩は生きている証とも言えそうです。 要らない煩悩を排除し、必要な煩悩を受け入れるのが「浄化」なのでしょうね。
2025年10月16日11時34分
信濃のサンデーカメラマンさん こんにちは。ありがとうございます。 美は細部に宿るというのが私の考え方で、「部分」を探すというのが私の作風かもしれません。 大きな風景を撮りつつ、足元や頭の上にある「部分」も美しいものです。 善光寺は素晴らしい場所ですね。
2025年10月16日11時36分
またろう@お気楽撮影人さん こんにちは。ありがとうございます。 釣鐘を撮ろうとしていたら奉納幕が揺れているのに気づきこのストーリーを思いつきました。 どこを切り落とし、どこを見せるかというのがポイントになりそうなシーンでした。 なるほど、ソーラーセイルを持つイカロスですか。さすがの視点ですね。
2025年10月16日11時41分
run_photoさん、こんにちは。私ごとで大変恐縮ですが状況的に何かと忙しく、「お気に入りに登録」するだけが限界の時がありコメントがままならない事が多くてコメントなしの時がしばしば。ご無礼をお許しください。立派な鐘ですね。ここで除夜の鐘について述べたいと思います。除夜の鐘は、日本仏教にて年末年始に行われる年中行事の一つでありますよね。12月31日の除夜(大晦日の夜)の深夜0時を挟む時間帯に、寺院の梵鐘を撞くことであります。除夜の鐘は多くの寺で108回撞かれます。近年では、近隣住民への配慮や、除夜の鐘を手伝ってくれる檀家の高齢化などもあって、除夜の鐘を昼に突く、または突かないというお寺もあるようです。端的に言って煩悩とは自分自身を苦しめる心のことです。欲が満たされたら苦しまなくて済むのかという問いに対して、仏教では、そんなことはないと考えられています。この考え方を有無同然と言います。欲しいものが手に入っても人間は幸せになれないという考え方です。お金や美しさ、権力を手に入れても幸せになれるわけではありません。つまり自分の外の環境を変えても幸せにはなれないのです。そのことから、仏教では幸せになれない原因は自分の外にあるのではなく、自分の内側にあると教えられます。自分の内側にあり自分自身を苦しめる心を、仏教では煩悩と呼びます。煩悩は一人の人間につき108個あると言われています。大晦日に除夜の鐘を108回つくのは、これに由来しています。108個ある煩悩を鐘が一つ鳴るごとに一つ消して、来年は幸せな一年を過ごしたいという願いが込められているというわけです。108個ある煩悩の中で特に人を苦しめる3つの煩悩をご紹介します。それは貪欲、瞋恚、愚痴の3つです。この3つの煩悩は仏教では「三毒の煩悩」という呼び方があるくらい、強力なものとされています。 ①貪欲についてですが貪欲とは、底なしの欲のことです。ちなみに仏教上の意味で使われるときは、貪欲と書いて「とんよく」と読みます。仏教では欲は満たされることがないと考えられています。いくらお金があっても、容姿が美しくても、人間はもっと欲しがり続けます。当然、無限の欲を満たし続けるのは不可能なことです。そして欲が満たされないことが、次の煩悩である瞋恚につながります。 ②瞋恚についてです。瞋恚とは、怒りのことです。欲が満たされないことで怒りが増幅します。怒りは抑制できない感情ですので、一瞬で仕事や人間関係を台無しにするものです。怒りに駆られた人間には後悔が残ります。。
2025年10月16日14時38分
続きです。 ③愚痴についてです。愚痴とは、羨ましい気持ちや妬みの気持ちを表します。自分よりもよいものを持っている、早く出世しているといったことから、相手に対して負の感情を抱くようになります。煩悩が108個あると言われる由来には、やはり諸説あるようです。 ここでは4つの説をご紹介します。説ですから話半分に見てください。 はじめにご紹介する説は、六根(6)×好・悪・平(3)×浄・染(2)×過去・現在・未来(3)をすべて掛け合わせると108になるという説です。六根とは人に感覚を生じさせ、迷いを与えるもののことで、眼、耳、鼻、舌、身、意の6つを指します。好・悪・平は人間の感情のあり方を表しています。好=快感、悪=不快、平=どちらでもないというあり方です。浄・染は浄=きれい、染=きたないという意味ですね。そして三世は、過去・現在・未来や前世・今世・来世を表します。これらすべての組み合わせが、六根(6)×好・悪・平(3)×浄・染(2)×過去・現在・未来(3)=108となり、よって煩悩は108個あるとされています。 次の説は、四苦八苦という言葉に由来しているという考え方です。四苦(4×9)と八苦(8×9)を足した数が108になることから、煩悩は108個あるとされている説です。こちらがシンプルに感じます。 次に気候や季節の変わり目を表す暦に由来しているという説もあります。月の数(12)+二十四節気(24)+七十二侯(72)を足すと108になります。月の数は1月〜12月までのことです。二十四節気とは春夏秋冬をそれぞれ6つずつに分けたものです。立春や秋分、夏至も二十四節気の一つです。七十二侯とは、二十四節気をさらに細かく分けた暦です。中国の古い暦が日本に伝来して、日本式になったものと言われています。これらを足し合わせると12+24+72=108となります。 最後の由来は日本独特のものです。日本では古来より数えきれないくらい多いものを指すときに数字の8を使って表すことがあります。八百万や嘘八百などがそうです。そこから108になったのではないかという説です。こうやってみると、面白いですね。 「人間の煩悩はなくせるのか?」という事を疑問に思った事があります。しかし、お寺様に聞くと仏教では煩悩はなくせないと考えられているそうです。しかし、幸せになる方法はあって、煩悩を抱えたまま幸せになることができると考えられています。それが煩悩即菩提という考え方です。煩悩の元になっている苦悩をなくすことができれば煩悩をそのまま幸せへ変えてしまうことができるとする考え方です。最後に除夜の鐘の音を聞いて気持ちのいい新年を!ですが除夜の鐘の様子は世の中の風潮に合わせて変化していますが、大晦日の夜、除夜の鐘を聞きながら新しい年を迎えるのも楽しいものです。煩悩は心の中にあって消し去ることはできないと考えられていますが、清らかな鐘の音を聞いて、気持ち良く新しい年を迎えるという、昔の人の生活の知恵なのかもしれませんね。(長文、すみませんでした)前、葬儀関係の仕事、会館設立立案を手掛けていましたので、お役に立てたかどうか分かりませんが、持っている知識を全て書きました。
2025年10月16日14時43分
カメパパさん こんにちは。お忙しいところコメント、様々な情報をありがとうございます。 私は浄土宗で育ったので30歳代の頃、京都にある浄土宗の総本山「知恩院」まで勉強に行ってきました。 また、折に触れて菩提寺のご住職から説法をいただいてきましたので前半と煩悩の一つ目の説については存じておりました。 日常勤行にも三つの煩悩である「貪瞋痴」が出てきます。煩悩の一つ目の説は六根の書かれている「般若心経」でも説かれていますね。 残り三つの説は初めて知りましたが、仏教からは大きく離れますので説得力に欠けるような気がしました。やはり一つ目の説が確からしいように思います。 煩悩はネガティブなイメージとされることが多いですが、私見としては「生きるための原動力」と考えています。言い換えると「生きている証」です。 大事なのは煩悩を上手くコントロールして、煩悩を活かすことだと考えています。 年齢や環境によって必要な煩悩は異なるので、要らなくなった煩悩は捨て、今必要な煩悩を取り入れる。 例えばサラリーマンであればある程度の「出世欲」が必要です。もちろん収入を増やしたいということもありますが、その欲は仕事の質を高め最終的には社会貢献に繋がります。しかし、それなりの立場になるとその権力に溺れた人はダメになり、出世欲を捨てられた人には周りに自然と人が集まり人脈が構築できる。その人脈は自分の助けになり幸せな生活に直結する。 また、煩悩は内に秘めるものであり決して表に出すものではないとも考えています。例えば怒りの感情は自他に対して存在するものです。それを捨てるか活かすかは時と場合によります。怒りの感情は自分の欠点を知った瞬間でもあり学びの機会と言えます。 さらに理系的発想ですが、負の数と負の数を掛けると正の数になります。煩悩と煩悩を正しく掛け合わせると正しい行いにもなり得ます。 以上は私の煩悩に対する考え方というか信念のようなものです。それぞれ意見は違うと思いますが、だから社会が成り立つ。しかし間違えれば戦争になる。それが人間故の苦悩のような気がします。
2025年10月16日17時21分
私のようなものがこういう言い方すするのは失礼かと思いますが、とても味わいのある作品だと感じました 微動だにしない釣鐘と奉納幕の対比が美しいです 凛とした空間に対峙する美しさがありますね
2025年10月16日20時12分
こぼうしさん こんばんは。ありがとうございます。 「味わいのある」、嬉しいお言葉ありがとうございます。 最初は釣鐘に目が行ったのですが、すると奉納幕が動いてきて静と動のストーリーができました。 とても静かな空間に動きが感じられる不思議な感覚ですね。
2025年10月16日20時47分
Fur38
こんばんは! 煩悩が消えていくとは、悟りの心境ですね 見習わねばとは思いますけど 私は煩悩で頭がパンクしそうです 釣鐘から悟ですか うらやましいです 。
2025年10月15日18時50分