カメパパ
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新旧西海橋 写友と佐世保撮影シリーズ。想い出の日記 旧西海橋、新西海橋の写真になります。 定番のスポットからです。それぞれの共通点はアーチ橋。 やはりここは、当時の設計者から代々受け継がれた、綺麗なアールデザインであることです。run_photoさんも喜んでくれました。 ※C-PLフィルター 撮って出しの写真です。
こんばんは。 この時のこと思い出してきますね。 そう言えば道案内した老夫婦は目的地にたどり着けたか心配しましたね。 新旧同時に眺められるここの眺めは最高でした。
2025年05月06日20時51分
yoshi.sさん おはようございます。 おっしゃる通り、写真を通して友達になれる…。なんと素晴らしいんでしょうか。 そういう形の出会いがあちこちで起こっている。本当に良いことです。 つい一人仕事になりがちの写真撮影。友ができるツールになるとは・・。感謝でございます。yoshi.sさん、いつか、にっしゃん、交えてオフ会しましょう。
2025年05月09日10時56分
run_photoさん おはようございます。返信が遅れてすみませんでした。確かに、あの老夫婦、私の道案内がキチンと伝わったのか、ましては第一西海橋だったのか、第二西海橋の案内だったのかを明確にしてなかったので、今も、何故か申し訳ない気持ちでドキドキしています。 新橋、旧橋を同時に眺められる展望台、感じてもらって良かったです。
2025年05月09日11時01分
うめ太郎さん おはようございます。 西海橋の建設背景には様々な歴史がありました。 西海橋架橋は、昭和初頭に地域住民からの強い要望を受けた22の町村長が集まって、県に要望をしたところから始まります。 西彼杵半島北部は「魔の海峡」と呼ばれた伊ノ浦瀬戸により隔絶され、 「陸の孤島」と云われていました。 旧大串村の大串盛多村長は、橋が架かれば西彼杵半島は発展すると考え、 1935(昭和10)年、県議会議員になり架橋の重要性を訴えました。 1940(昭和15)年には県営道路改修事業に伊ノ浦架橋費の追加決議がされましたが、大東亜戦争開戦により事業は中断します。 長崎県は国に対して架橋を強く働きかけ、1950(昭和25)年から対日援助見返金(占領軍の対日援助)よる事業として着工することになりました。 1952(昭和27)年からは「道路整備特別措置法」によって有料道路制度が定められ、国の直轄事業として工事は継続されました。第一西海橋は有料だったんです。 関係者の願いと長年の努力が実を結び、西海橋は戦後間もない1955(昭和30)年10月に完成しました。 各地、様々な歴史がありますが、こうやって紐解いていくと過去の方達、技術者達は素晴らしいですね。日本は凄いですよ。 頑張れ日本!うめ太郎さん、いつもありがとうございます。
2025年05月09日11時14分
美しいです!学生時代、車の免許とりたての頃、一晩中走り西海橋で朝を迎えたり、歳上の女友達の車で西海橋までドライブしたり、本当に懐かしいです。青春時代を思い出すきっかけをくださりありがとうございました。
2025年05月15日01時42分
Zacky01さん おはようございます。お久しぶりです。 年上の女友達…(彼女さん)かな。 私も夜通し走って、よくここにも来ました。懐かしいですね。青春時代を思い出して頂き良かったです。
2025年05月15日09時39分
yoshi.s
写真撮影を通しての友というのは、このPHOTOHITOならではのことでしょうね。 そういう出会いがあちこちで起こっている。本当に素晴らしいことです。 つい一人仕事になりがちの写真撮影。友ができるツールになるとは・・。感謝!
2025年05月06日20時06分