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浦頭記念資料館 コート

浦頭記念資料館 コート

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    ガラス越しでしか写せなかったですが、当時の貴賓の高さが伺えます。 暖かそうなコートです。以下、資料館より一部抜粋ですが、お時間があられます方はお読みになられてください。

    コメント7件

    カメパパ

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    満蒙開拓について、ここではあくまで基本的なことについて述べさせて頂いています。 まずは、一般には余り知られていない「満州」や「満蒙開拓」等についての 基本的なことを知って頂くことを主眼としていますので、学術的、専門的な視点 からはもの足らないと思いますが、前記趣旨からのことですので簡易化、 表現省略等はご容赦いただければと思います。 
※「旧満州」、「満州」等の用語を使用していますが、これらを美化・賛美しよう等 の意図ではなく、歴史を正しくそのままに伝えようという意図によるものです。

    2025年04月27日12時20分

    カメパパ

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    「満蒙開拓」とは 満州に駐留していた日本の陸軍部隊、関東軍による満州事変を経て 1932年に日本の傀儡(かいらい)国家「満州国」が建国されました。   当時の日本国内は世界恐慌のあおりを受け深刻な経済不況に陥り、 特に農村経済を支えていた養蚕業は大打撃を受け農家は借金を背負い、 村や町といった自治体も負債を抱えていました。   1936年に「満州農業移民100万戸移住計画」が国策となります。 疲弊した農村の経済の立て直しや食糧増産などを目的に推し進められましたが、背景には「満州国」の支配、防衛といった軍事的な目的もありました。 日本の戦況悪化、ソ連軍侵攻。結果として、約27万人の開拓団のうち約8万人がなくなったと言われています。

    2025年04月27日12時21分

    カメパパ

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    満州へ渡った開拓団の悲しい末路 1945年8月9日、ソ連侵攻で満州は戦場と化し、開拓団の人たちは広野を逃げ惑います。 戦力で圧倒的に勝っていたソ連軍に加え、日本の敗戦を知った現地の人たちも 各地で暴動をおこし日本人を襲撃しました。   逃避行を余儀なくされた人々は、満州の広野でコーリャン畑に身を潜めながら歩きました。 力尽きた母親が我が子を山に置いてきたり、川に流してきたり、 手りゅう弾で殺してもらったという話もあります。 また追い込まれた人々の壮絶な集団自決も多発したと聞きました。   敗戦国となった祖国日本からは何の援助もなく帰る手段もありません。 難民となった開拓団の人々は収容所生活の中、寒さと栄養失調、疫病で大勢亡くなりました。 子どもを中国の人に預けたり、売買もされたといいます。 「中国残留孤児」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。 背景には壮絶な歴史があったのです。   満州国へ渡った農業移民、満蒙開拓団は全国から約27万人。 そのうち約8万人が犠牲になりました。 中には青少年義勇軍として組織された少年たちもいました。    「満蒙開拓」は国策として大々的に宣伝され推進されましたが、戦後はあまり語られてきませんでした。 それは、あまりに壮絶な体験なのでご本人たちが語ろうとしなかった、 地域の中には満州行きを進めた立場の人もいて責任を問われていた、 開拓団が手に入れた土地の中にはもともと現地住民の農地だったものもあった、など様々な背景がありました。

    2025年04月27日12時22分

    カメパパ

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    主な移民の形態 ◆試験移民(武装移民) 1932(昭7)年から1935(昭10)年までの初期段階の移民を試験移民といいます。 当時、満州には抗日武装集団(日本人は「匪賊(ひぞく)」と呼んだ)が各地に存在していたこともあり初期の移民は主に農業経験のある在郷軍人(予備役軍人)から選ばれました。 実際に襲撃にも遭い犠牲者も出るなどしたことから、第1次試験移民は約500名入植したうち3年間で162名、第2次も約500名のうち2年間で161名の退団者を出しました。 ◆分村・分郷移民 1937(昭12)年、満州農業移民が国策として着手されてからは大量移民政策が実施され、同じ地方からの集団移民が組織されました。各県ごとに募集された開拓団のほか、町村が単独で送出する分村開拓団や、近隣複数の町村が送出母体となる分(ぶん)郷(ごう)開拓団が推進されました。 ◆満蒙開拓青少年義勇軍(満州での名称は満州開拓青年義勇隊) 満州移民を推進するため1938(昭13)年から国が募集を開始しました。満14~18歳までの青少年で組織され、3年間の訓練期間を経て開拓団に移行し満州で農業の担い手になることが大義名分でした。 ◆自由移民 国や県、市町村募集以外の開拓団です。 ◆勤労奉仕隊 青年層を中心に農繁期の春から秋の数ヶ月間派遣されました。 ◆帰農開拓団(転業開拓団) 農業以外の職種から満州へ移民し農業に転業した開拓団です。

    2025年04月27日12時24分

    うめ太郎

    うめ太郎

    満州の寒さをしのぐためのコート暖かそうだなと思ってさらりとみましたが、 キャプションを読み進めると当時の厳しい歴史が背景にあるのだなあと思いました。 現在でも、海外で戦争が行われていますが、悲劇を伴わない戦争はありえないと 思います。 それがわかっていながら為政者は、時に戦争に突き進んで行くのか、愚かさと 怒りを覚えてしまいます。 大義名分の虚像と、現実の厳しい実像との乖離がここにはあるのだなあと思いました。

    2025年04月30日00時45分

    yoshi.s

    yoshi.s

    平和こそがすべての基本です。 それには、他とともに、と考える精神の醸成が必須です。 我を抑制することを学ぶ必要があります。 どこかの国の大統領のように、me firstと言うなら、secondやthirdのことも考えなければなりません。me onlyではいけませんね。

    2025年05月02日10時21分

    Binshow

    Binshow

    カメパパ様 読ませて頂きました。悲しい事実が有ったのですね。夢を持って国策に従って思わぬ悲惨な結果になってしまったことを私たちは忘れてはいけませんね。ウクライナもパレスチナも早く戦が収まり住人の人々に平和が訪れてほしいと願います。歴史は繰り返されているようにも思えます。強国は自分に都合のいいような理屈を前面に出して言い分を主張していますね。海に人工島を作って権利を主張する。そこまでやるかって感じですね。

    2025年05月02日10時29分

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