オズマのつぶやき
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九州筑豊の炭鉱町から上京し浅草のパチンコ屋で親父と知合い そして松阪、名古屋と転居するなか私と妹が生まれた。 人にはできない本当に苦労した手なんです。 施設では私に 「ごはんなんて一日ひと握りだけでいいから家に連れて帰ってくれ」 といつも言っていた。 長男としてそれができないことがとても辛かった。 今さら言ってもしょうがないことだが。 CANON A-1/NFD50mmf1.4 Fomapan200
ごはん一膳にしてでも家に帰りたい 重い言葉です。 誰でも住み慣れた家で最後の時を迎えたい気持ち分かるような気がします。 会社の創業者前会長(今も細々と連絡有る現在の会長の父親)が膵臓癌末期の時、付き添っていてどうすれば本人の気が安まるのか? 何故か病院までの途中にあった薬局でその頃はターミナルケア(終末医療)という言葉も知らなかったけれど、淀川キリスト教病院の発行した医療従事者向けの本を貸してもらった事もありました。やはり住み慣れた場所が一番落ち着くと記載されてた事を思い出しました。 深夜の病院で最後を看取りましたが、ドラマの瞬間でしか知りませんでしたが、死に際に立ち会えたのは後にも先にもその時だけ。 身内では事後報告ばかりで、家内の母親の葬儀にも海外出張中で帰国もままならずでした。 韓国の所長を務めていた韓国人の奥様の母親が危篤で、病院に夜駆けつけてももう意識は無く、峠を迎えようとしていました。翌朝訃報を受けてお通夜の席に工業団地の向かいのご主人と行った事もありました。 兄弟の勤務先が現代(ヒョンデ)や三星(サムスン)等の財閥系で豪華な花輪がいっぱい並んでいた事を思い出しました。 当時私の母親を亡くして間も無くの頃で、映画「おくりびと」が放映されており、往復の機内でまるまる一本前後に分けて行きと帰りに見ていて一人涙してました事、思い出します。
2024年12月21日09時25分
よねまるさんいつもコメントありがとうございます! 九十五さいですか! それはお元気でおめでたいことです。 私の母は九十二でなくなりましたから。 余談ですが 私の大学柔道部の同期で独身の独り身で百歳越えの母親を 一人で自宅介護しています。 最近は認知や歩けるのですが紙おむつでやはり粗相したりして それら全てと当然食事、洗濯など一切の家事をやっています。 施設に入れた私からすれば本当に頭が下がり立派だと思ってます。 ただ、本人も学生時代は脳内出血し大手術で その後社会人では心臓のカテーテルでレーザーで心臓内面神経を焼く 手術を二度しています。 それは不整脈が原因なんですが… 「俺がいうことではないけれど自分の人生・体を考えてそろそろ施設に お世話になった方がいいと思うが…」 でも優しい友はまだ踏ん切りがつかないと言ってました。 踏ん切りがつかないという気持ちはホントよく分かりますね。 だから時折電話をかけています。
2024年12月21日11時20分
komaoyoさんいつもコメントありがとうございます! ご理解頂きありがとうございます。 重い言葉ですね。 komaoyoさんは会社創業者の方とはご縁が深いようですね。 喧々諤々と議論しても惹きつけ合う人間関係はなかなかありません。 しかしエリートだったのですねぇ。 確かにお写真のキャプションからも 私とは違って頭がいい人なんだなぁと常々思ってました。 でも、このサイトに投稿される人ってその様な方々ばかりで 私のように大学出たけど柔道だけで勉強してなく 社会人になってサラリーマン6年で辞め その後はツルハシ持って穴掘りしてる人間は 珍しいでしょうね。(笑
2024年12月21日11時35分
山菜シスターズさんいつもコメントありがとうございます! そうでしたか。 私の母は九州筑豊での生活は8人兄弟で貧しく ボタ山で石炭が残っている大きな石を拾い集めて リンゴ箱に入れたりとそんな生活をしていたようです。 その後も五十代まで道楽親父の苦労ばかりでした。 ただ、よくしゃべる性格は私に遺伝したようでして 知らない人にも声掛けたりしちゃいますね。(苦笑 まぁ、営業向きかもしれませんね。(笑 私は病院へ駆けつけた時は既に息を引き取ってました。 当然大動脈破裂でしたので意識はずっとなかったと思います。 しかし母は偉大でした。
2024年12月21日11時51分
よねまる
私の母親は現在95歳。来年は年女で96歳。 手はしわくちゃでシミだらけ。本人も記憶にない小さなアザなども ついていたりして。面会に行くと手を握り、そしてさすってあげるのですが、 こんなにしわくちゃだけれど、この母親の手で育ててもらったんだよなぁって 思っちゃいますねぇ…。
2024年12月21日08時33分