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谷中には岡倉天心の住居跡がある。 天心の住居は、院展で知られる日本美術院の発祥の地でもある。 後に台東区が、ここを岡倉天心記念公園として小さな公園にした。 現在の美術界で日展と双璧をなす院展は、この小さな日本美術院から始まったのだ。 公園の奥に小堂がある。やがてこの地から私の住む茨城県北の五浦に移転した日本美術院の、岬に建てられた天心の茶室、六角堂を模したものだ。 その中にこの像がある。 平櫛田中作、岡倉天心像。 平櫛は天心の弟子で美術学校教授。 この天心像は現東京芸大にもある。 *下に
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*上から続く 横浜生まれの岡倉天心は、幼少より英語を学び、14歳で入学した開成学校(のちの東大)を経て東大を17歳で卒業し、その年に文部省に入省した。だれが見ても天才だ。 そのころ東大客員講師として来日したアーネスト・フェノロサの助手として、日本美術の収集に当たった。やがてフェノロサと共に東京美術学校(現東京芸大)の創設に尽力し、23歳で美術学校幹事(設立委員長)、27歳にして初代校長となった。フェノロサは副校長に就任した。 天心は本来美術家ではない。東洋思想の哲学者、思想家であった。 ロンドンで出版した、「アジアは一つなり」で知られた『東洋の理想』、ニューヨクで出版した『茶の本/ The Book of Tea』はよく知られている。原著はいずれも英文である。 天心はこの新しい美術学校で、弟子たち(橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草、などなど)と共にそれまでの日本画と西洋絵画の融合を模索した。 しかしそのことで、それまでの日本画の系譜を引く画家たちとの間に軋轢が生じ、美術学校を追われるようにして去ることになった。 しかし天心はそこで心折れることなく、自らの住むここ谷中に日本美術院を設立し、すでに美術学校教授に名を連ねていた上記弟子たちと共に模索を続けるのである。 *その後の天心や、大観など弟子たちの活躍ぶりに興味のある向きは、拙タグ、岡倉天心を、または天心美術館タグのうちの、天心美術館1〜3を辿って頂きたい。
2024年01月30日19時05分