二ゲルおじさん
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ご覧頂き有り難うございますm(_ _)m 先日伊藤伝右衛門邸に行く途中「久世さんの碑」にお参りさせて頂きました(_ _;)1945年(昭和20年)8月8日終戦1週間前 米軍による八幡市(現北九州市)爆撃を長崎海軍大村航空隊343部隊(紫電改)24機が迎撃 撃墜8機戦果を上げるも紫電改9機が未帰還 内1機は飯塚市鯰田上空で戦闘 惜しくも散華 弱冠18歳の若者 久世龍郎(三重県出身)さんですm(_ _)m 今でも毎年命日には追悼祭が行われていますm(_ _)m碑に献花の絶えた姿を私は知りません(_ _;)
翌日の8月9日にB29「ボックスカー」が原爆を搭載して小倉上空に飛来し、投下を模索していたところ、日本の戦闘機の緊急発進を確認して小倉上空を離脱して長崎に向かったとのことですから、この前日の防空戦闘での奮戦は米機に抑止効果はあったのでしょうね。逆に長崎は大村航空隊が損耗した状態だったということが悲劇になったのですね。合掌。
2023年10月12日05時18分
基線長さん(^o^)おはようございますm(_ _)mコメント有り難うございます(_ _;)はい(^o^)おっしゃる通りですm(_ _)mこの8月8日が343紫電改部隊最後の戦いとなった様ですね(^o^;この頃までには紫電改を制作していた川西航空機工場は空爆で破壊され生産停止状態で機体の補充も出来ませんm(_ _)m搭乗員大多数戦死していますので これは北部九州に限らず全国規模で本土防空は無防備に近い状態だったと思いますm(_ _)m 翌日の長崎原爆投下は 大村航空隊から良く見えたそうですm(_ _)m 私の父も所属は違いますが この時大村航空隊にいて艦爆彗星の爆撃手だったので この原爆投下のキノコ雲を見たそうですm(_ _)m 父は80歳まで生きられたのに この久世さんは18歳でお亡くなりになっています 複雑な心境です(_ _;) いつもご覧頂き有り難うございますm(_ _)m
2023年10月12日06時03分
二ゲルおじさん
機数詳細は宮崎勇さん著「還って来た紫電改」を参考としましたm(_ _)m
2023年10月12日00時38分