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父が撮った写真その2・3の3

父が撮った写真その2・3の3

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    B

    「1956銀座 ベロナF2」

    コメント13件

    ち太郎

    ち太郎

     ロシアに部隊(一個中隊約200人)ごと徒歩で連れて行かれ捕虜収容所に。 その時は部下は全員まるまる無事で、私の父だけ病気になり死の縁を彷徨うことになりました。  元気になってからロシア側から「お前らの代表を決めろ」と要請がありました。つまりロシアも同じ兵隊なのでコイツらも中隊ごとでしかまとまらないと考えていたようです。 部下を前にした父は「戦争は終わった、私は中隊長でも何でもない、全員で代表者を決める」と言い、簡単な選挙のようなことをおこなったようです。 一人二人を除きほぼ全員が父を指名したとのことで、以降、収容所内でロシア側との交渉をすることとなりました。 そして収容所に残された多くの捕虜は極寒での強制労働に従事させられることになったのです。  そうこうするうちに腸の病気が再発し、収容所を離れてロシアの病院が併設してある捕虜収容所に。 そこでハバロフスクから連れて来られた母と初めて会ったのです。  母は15、6人の女性と一緒に佳木斯市の陸軍病院で軍属として働いており、逃げ遅れた全員が捕虜としてハバロフスクに連行され、女子と言えども坊主頭にされ監獄に入れられていたのです。  そこから何百キロも離れた所に連れて来られたのが父が入っていた施設なのです。  はい、これが無ければ私は生まれていません。  そしてその病院兼捕虜収容所でロシア人女性病院長に惚れられてしまって、あなたを日本に帰したくないと..。 もちろん母もそのロシア人女性病院長を知っています、名前まで..。 こりゃ参った(笑)。 母の舞鶴港での写真は下記に。 「戦記念日・戦争について思う-駐留米軍が撮った写真-」 https://photohito.com/photo/8017053/  日本に戻ったのがその後なので、東京大空襲以降から終戦、及びGHQ占領下での復興の兆しが見え始めた2、3年間は日本のことを知らなかったのです。  後になって古本などを集めて当時の日本の様子などを良く見ており、私もそれを目にすることとなったのです。  一個人の歴史の一コマに過ぎませんが、まだまだ書ききれないほど多くのエピソードや裏話があります。

    2023年08月15日10時29分

    Winter lover

    Winter lover

    ち太郎さんのご両親のお話、謹んで拝読させて頂きました。 今日は78回目の終戦記念日ですね。ウクライナとロシアの 戦闘の長期化も懸念される日々が続いています。 北朝鮮や中国の軍事侵攻があり得ることも気に掛かります。 日本は終戦以降、平和な安心安全な暮らしが続いてきていますが この先、世界情勢の異変によりどうなるかわかりません。 今、我々が生きている時間を大切にしたいと思います。 因みに私の父は海軍通信兵でモールスを打電、山口防府通信基地 にて従軍していました。前線部隊ではないですが指令を出す裏方 所謂、縁の下の力持ちといった役割を担う担当者でした。 山口県防府で終戦を迎え、東京に帰京しました。 お父様が撮られた作品、銀座の〇〇製菓のネオンが懐かしいですね。 このネオンは今でも脳裏に染み付いています。貴重なお写真ありがとう ございます。

    2023年08月15日12時08分

    たまたま4071

    たまたま4071

    あぁ、銀座4丁目の森永キャラメルのネオンと雪印のネオン、胸に迫りますね。 56年は森繁の人気映画『社長シリーズ』の第一作が公開され、日本の高度経済成長がスタートした年でした。 戦時中のエピソードで強く印象に残っているのは、横浜市の石川町付近に住んでいた後の大女優・岸恵子が、45年5月の横浜大空襲の警報が鳴り出すと母親に「山の上に逃げなさい!」と急かされ、現在の山手の元町公園あたりをめざして大勢の町民と斜面を登っていくと、不意に町内の班長に腕をつかまれ、「何をやってるんだ!子供は防空壕へ入れ!」と近くの防空壕へ押し込まれそうになったそうなんです。 その時まだ13歳だった彼女は、なぜか「ここに入ったら死ぬ!」と直感し、班長の手を振り払ってさらに山の上をめざしたそうです。 空襲が終わって山を下っていくと、先ほどの山の中腹にあった防空壕はB29の直撃弾を食らって全員焼死。それ以降、大人の言うことは一切信じないで自分だけを信じて生きようと決めたそうです。 その12年後に彼女はフランスの貴族で映画監督のイヴ・シャンピと結婚、別荘で友人たちと食事をしている彼女の写真を撮ったのは、夫の友人のオードリー・ヘップバーンで、実存主義哲学のサルトルと作家ボーボワールも同席していたそうです。 一瞬の判断で人生はこうも変わってしまうのかと強く印象付けられた次第です。

    2023年08月15日17時43分

    ち太郎

    ち太郎

    >Winter lover様 売られた喧嘩は買う--これは江戸っ子だけの話にしておきましょう。絶対に手を出してはいけません。それを私は父から教えられました。父は私に手を出したことがありません。一度も殴られた事が無いのですね。 軍隊で散々殴られてきて、それがいかに人に対して無力で良くないことかを解ったのです。 まずテーブルに付け、そして納得するまで議論をするのだ。勝ち負けは無い、どのようにお互いを理解するかを探るのだ--ということを実行していました。 沖縄で捕虜になった日本軍人は10歳から70歳ですから、惨めなものです。撤退する軍部に付いて行ってしまった民間人の最後は..、有名な話です。そうなる前に何とか出来なかったのかと悔やまれますね。 人生それぞれ、重さ大きさは関係ありません。大切な価値があると思います。 こちらにも丁寧なコメントありがとうございます!

    2023年08月15日17時56分

    ち太郎

    ち太郎

    >たまたま4071様 そうですね、横浜も、原宿も、山梨の甲府もあちこちでひどい空襲になりましたね。 私がガキの頃にいた地区も防空壕がありました。今のお化け屋敷のように怖い怖いと言いながらイタズラで入ったりしてましたね。板橋の小茂根にも大きな防空壕があり、地下トンネルが続いていました。面白い遊び場になっていました。 そして十条は米軍の駐屯地になり、近くに行くと演習での機銃掃射の音が聞こえていたと伝え聞いた事があります。 今でも関東の多くの地が米軍から返還されないで残っています。その中で、これはドラマなどになっていますが一番怪しい陰謀の匂いがするのはたまたま4071様の近くだと思います。そして日本軍は登戸の病院ですか..(笑)。 いつもご丁寧なコメントありがとうございます!

    2023年08月15日18時07分

    ある男の写真日記

    ある男の写真日記

    ち太郎さんのお父様のお話は凄いですね。 また中尉だったとは優秀な方だったと思います。 そして部下のことも思う上官ですね。 太平洋戦争でも部下の命を考えないバカな上官が大勢いたと思ってます。 そして命を落とすのは若い兵隊ばかりだったのでしょう。 なんでもお国の為と言えばよかったのでしょうね。 貴重な体験談をありがとうございました。

    2023年08月15日19時24分

    仏女55

    仏女55

    そんな!スゴいち太郎さんの歴史を教えて下さり ありがとうございます! もう言葉が思いつかないですよ。

    2023年08月15日21時05分

    gustave

    gustave

    お父様とお母様の話、小説を読んでいるような感覚で読みました。私の父も母も戦争経験したけど、そんな話をちゃんと聞かないうちにこの世からいなくなってしまいました、ち太郎さんがちゃんと記憶を継承してるの凄いことです。感動です。

    2023年08月15日21時27分

    ち太郎

    ち太郎

    >ある男の写真日記様 召集されてから、こんな組織ならば上に行かないと損だと思ったと本人が言ってました。 後に何故か自衛隊の演習にお誘いの案内が来まして、位は大尉に昇進しておりました。 父は、えっ、今の自衛隊と日本軍はまったく違うのでは?と言ってましたね(笑)。 実際に私もその案内状を目にしています。 結局はその演習には行きませんでした。 根っこは同じでしょうか。それならば、ある男さまがおっしゃるように若い方が犠牲になってはならないと思います。 たびたびご丁寧なコメントありがとうございます!

    2023年08月15日23時44分

    ち太郎

    ち太郎

    >仏女55様 大したことないです。なんだかんだで暇な退役軍人が子供に話たことですからね。 ただし路地奥に住んでいましたので、近所で呼んで呼ばれて、ほとんどの家が元軍人であり戦地を経験しているため、酒を飲んでは盛り上がっていたようですね。 いつも温かいコメントありがとうございます!

    2023年08月15日23時48分

    ち太郎

    ち太郎

    >gustave様 珍しく話す人でしたね。 路地の住人も元兵隊だらけ。酒を飲めばそっちの話ばかり。それに加えて近所に寿司屋が開店し、そこの旦那(職人)が満州の特務機関にいたと知って驚いた父は、私や家族をダシにして足繁く通っていました。その時にまた色々と話を..(笑)。 私は寿司が好きになれなく、特別扱いですぐ横のラーメン屋さんから出前をしてもらいました(汗)。そんな私は近くにできた米軍ハウスの子供と仲良くなって遊んでいました。父はどう思ったのかは生前に聞いていませ〜ん。 いつも温かいコメントありがとうございます!

    2023年08月16日00時03分

    うめ太郎

    うめ太郎

    立派なお父様だったのですね。 人間いつになっても肩書を捨てられない人が、多い中で そんな潔さが人望を集めたのでしょうね。 写真も趣味されていたようで、素敵なスナップを撮られて いますね。 ち太郎さんのスナップも、血のつながりの影響カモしれませんね。

    2023年08月20日18時04分

    ち太郎

    ち太郎

    >うめ太郎様 そんなに立派ではありませんよ〜。ラッキーだったかもしれません(笑)。 私が記憶に無い頃は写真が好きで撮りに歩き回っていたようです。そして私が写真!と言い出した時に、押入れの中から引き伸ばし機やら、現像液を入れるバット(皿)、トングのようなもの、赤い電球などが出て来ました(笑)。 こちらにも丁寧なコメントありがとうございます!

    2023年08月21日10時29分

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