ち太郎
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「1956帝劇前堀のあたり 月光VB」 ↓終戦記念日なので少し父のことを書きます。
えっと、私も父のことを簡略に付記させていただきます。 終戦間際の昭和20年当時父は出兵を逃れるため、当時兵役免除規定のあった 旧高等商船(現商船大学)に入学しました。 で、そこで学問を積んでいたのかと言うと全く違い、 旧日本海軍軍艦のヤキダマエンジン(現ディーゼルエンジン)のかけ方の実習を重ねる日々が延々と続きました。 卒業を終え赤紙は来なかったものの戦況怪しく、父とごく僅かの時間差で友人が次々と本土決戦の地沖縄へ出兵させられて行きます。 勿論全員戦死です。 そして8月6日、9日ヒロシマナガサキ原爆投下の日を迎え、15日終戦となりました。 思うのですが高等商船を出ていたら本当に出兵を免れたのでしょうか。 国家総動員法の管理下です。 戦時立法が次から次へと書き加えられて行った時代です。 そうです、ヒロシマナガサキに原爆が投下され15日終戦を迎えていなければ 間違いなく父は沖縄出兵となり戦死したはずです。 ヒロシマナガサキに原爆が投下され終戦を迎えたおかげで父は生き延び私が生を授かりました。 この意味で私の命は何千何万と言う原爆犠牲の下にあります。 原爆犠牲の上に授かった命です。 しかし無力です。 命をお授け頂いた原爆犠牲者のために何ができるわけでもありません。 せめて、せめてもの償いとしてこの生を受けた命ある限り倒れようが動けなくなろうが生き抜く決意です。 私にはこんなことしかできません。 どうか無力無能な私をお許しくださいと悔いる毎日です。 長々と失礼しました。 2023.08.15. Tue. 終戦祈念日 TeaLounge EG
2023年08月15日15時01分
>TeaLounge EG様 帝劇前堀のあたり--これは、すれ違いの映画「君の名は」で有名になった数寄屋橋の横なのですね。自分としては橋の写真も撮っておいて欲しかったと思いました。 調子に乗った国がいいように引っ張り出され、裏で分割統治まで決められ、最後は原爆でジ・エンドですか。犠牲になった方々は本当に残念でなりません。 私もTeaLounge EG様と同じで何もできません。せめて語り継ぐだけです。 戦後何十年も経って、やっと少しずつ解明されて来ましたが、まだまだ判らないことや隠し通していることが多いような気がします。 一人一人に歴史あり--そういうことだと思いますね。 いつもご丁寧なコメントありがとうございます!
2023年08月15日17時45分
>ある男の写真日記様 当時は数寄屋橋付近でもこれだけ水面に近かったのが現れていると思います。今は暗渠化され見る姿も無いです。 こちらにも嬉しいコメント恐縮です!
2023年08月15日23時35分
ち太郎
日本陸軍に招集され幹部候補生になり、試験を受けたりして中尉になった父は最終的に配属された関東軍・満州(北満)から一度戻り、九十九里浜に上陸してくると考えられていた米軍を迎え撃つ本土決戦のため、大砲を備える場所の視察をしていました。 習志野駐屯地に戻ってから東京大空襲(1945年年3月10日)があり、東京方面の空が真っ赤に染まり、同僚たちと「こりゃ今回の東京は相当ひどくやられているなあ」と話していたそうです。 それからしばらくして列車が動き始めたので九州へ。そこから船で釜山に。 釜山に渡る船の中で参謀懸章を付けていた大尉と話をして、初めてガダルカナルの酷さを知ったと。それほど情報が少なかった(統制されていた)時代なのでしょう。 その話を聞いた私は、そのまま日本に居れば良いのにと思ったのですが、そうはいかなかったようです(笑)。 ふたたび列車で新京、ハルピンを抜け、ロシアとの国境地帯へ。 自分の部隊に駆けつけるとそこはとんでもないありさまになっていたとのことです。 兵器は少なくなり、大砲も動かされ、撤収作業が始まっていました。 慌ててチチハルにある第4軍司令部に行くと、その事務所は書類が散乱し、電話機も床に落ちてひっくり返っていました。方面軍の参謀がいたので、これからの指示を仰ぐと「ロシアの参戦が濃厚になった。本部をハルピンに下げる。君たちは国境でロシアの戦車が来たら爆弾を抱えて飛び込むのだ」と。 「そんな訓練は受けていません。それをやってどうなるのですか」と父が返すと、「それならば戦車に向かって大砲を水平射撃せよ」と言われ、まったく大砲の無知な参謀に呆れ返ったそうです。 見捨てられ、進軍を遅くさせるだけの国境部隊になっていたのです。 そう、大型の榴弾砲を水平発射したら大砲ごと後ろに吹き飛ぶ可能性があるからです。 45度ぐらいの角度で打つからバネが効き、台座の上を後ろに下がるだけで済む訳なのです。 ロシアが参戦し、丘の上に大砲を動かしていた部隊は、ならば戦車が上がって来たら一発でも良いから打ってやろうと構えていたのですが、何も起こらず、下の方の道で撃ち合いが始まり戦闘の音が聞こえて来ただけで終戦になってしまいました。それも一晩ぐらいだったようです。 一発も打っていない、戦闘もしていない、一人も傷つけないし、一人も傷を負わなかった結果がロシアへの捕虜となったのです。 次の写真に続く。
2023年08月15日10時22分