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熊本城本丸御殿は畳数1570畳、部屋数53もある建物だったそうです。その中でもひときわ大きい建物が本丸御殿大広間で、ここは藩主の居間として使われたり、部下と対面する場所でもあったしうです。 大広間にはたくさんの部屋があったそうですが、なかでも一番格式の高い部屋が「昭君の間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋だったそうです。
GALSONさんへ コメント頂きましてありがとうございます。 調べて見ました。そのまま載せますね。 ①「昭君の間」は実は「将軍の間」の隠語であるという説もあります。熊本城を造った加藤清正は豊臣秀吉子飼 いの武将。その遺児である秀頼に万が一のときは、清正にはこの熊本城に秀頼を迎え入れ、西国武将を率いて 徳川に背く覚悟があり、そのための部屋が「昭君の間」というのです。 ②昭君之間の前で説明をしてくださっていた方のお話では、 本当は将軍(豊臣秀吉の子・秀頼)を迎えるために造った部屋だったそうです。 しかし、将軍を迎えることは叶わないままだったそうです。 そこで王昭君が描かれた間とういことで、昭君之間と名付けたそうです。 「しょうぐんのま→しょうくんのま」なんだか切ない気持ちが伝わってきます。 だそうです。ボクも勉強になりました^_^;
2011年05月07日08時38分
GALSON 植村
名前が昭だったのでしょうか?
2011年05月06日22時40分