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*つづき 9月。 龍馬は戦さになるのを何とか防ごうと、土佐の後藤に会うために長崎を後にした。 見送りに出たお龍に、「行ってくるぜよ」。「元気でな」と声をかけた。 お龍は、「元気でな、だなんて」。「いままで言ったこともないのに・・」と、龍馬の顔を見た。龍馬は笑っていた。 龍馬の乗った船が港を出ると、にわかに空が曇り真っ暗になった。とたんにぽつりぽつりと大粒の雨が降り始め、あっという間に土砂降りとなった。 お龍は驚いて茶屋に飛び込んだ。 そして、「龍馬はん・・」と、つぶやいた。 *下に続く
> お龍は、「元気でな、だなんて」。 >「いままで言ったこともないのに・・」と、 >龍馬の顔を見た。龍馬は笑っていた。 そんな事がありましたか。今となってみればこれが最後、、なんとも寂しいかぎりです。 柔らかな光の中、蜘蛛の糸で宙に浮いているお花にも、落ちていくなんとも言えない寂しさがありますね。
2022年08月02日21時55分
Zacky01さん あえて、龍馬とお龍、これが最後だった、とは書きませんでした。 創作ではありますが、読み取って下さり、嬉しく思います。 7月はこれに費やしました。
2022年08月02日22時36分
蜘蛛の糸一本に、いろんな可能性を滲ませているのですね。 歴史の動く方向って、時には大洪水の土砂流のように動くし、時には蜘蛛の糸に引っ張られてゆらゆら揺れ動きますからね。。
2022年08月08日01時25分
頑張れ!てんちゃんさん おっしゃる通りですね。 幕末の志士たちは、蜘蛛の糸一本一本になって歴史を変えようとしたのですね。 思い通りにならなくとも、少しでも動けばいい。そんな気持ちだったのでしょう。 ヴィジョンを描くことができたのは、ごく少数だったのでしょう。いや、たった一人だったかもしれない。
2022年08月08日14時32分
yoshi.s
*上からのつづき 薩長の倒幕の動きを耳にした土佐藩主山内容堂は、なんとか戦さではなく、大政奉還によって徳川を救う道を模索していた。 龍馬と後藤は必死に動いた。倒幕が始まる前に、幕府が朝廷に大政奉還を上奏しなければならない。最後の一手は、容堂公から将軍慶喜に建白書を出してもらうことだ。 それでももし慶喜が大政奉還を行わなければ、土佐は心ならずも薩長と合流して倒幕を行うまでである。 後藤の進言に、容堂は頷いた。 慶応3年10月3日、山内容堂は将軍慶喜に大政奉還の建白書を提出した。 慶喜は、薩長の動きを承知していた。薩長が倒幕に動けば日本を二つに分ける大きな戦さになる。それよりは、容堂の言うように大政奉還によって収拾することがこの国のためだ、と思った。 慶喜は容堂の建白書を受理した。神君家康公以来の日本国統治権を天皇に奉還する、との覚悟を決めたのである。 慶応3年10月14日(1967年11月10日)、将軍徳川慶喜は、明治天皇に大政奉還を上奏した。 朝廷はちょうどその日、薩馬、長州、芸州からの上奏を受けて、すでに倒幕の密勅を出したところであった。しかし国の統治権が幕府から朝廷に還るのであれば、民に無益な血を流させて幕府を倒す必要はない。 翌15日、明治天皇は、大政の奉還を勅許した。 これによって、265年間続いた徳川幕府は、その幕を閉じた。 *つづく
2022年08月02日13時12分