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*つづき 慶喜の将軍就任によって幕府の力が増すことを恐れた薩摩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らは、公武合体の朝廷主導を実現するべく、雄藩諸侯を京に集めて会議を開くことにした。 薩摩藩前藩主島津久光、越前藩前藩主松平春嶽、土佐藩前藩主山内容堂、宇和島藩前藩主伊達宗城。いずれも賢候の誉れ高い前藩主たちであった。これは四侯会議と呼ばれ、朝廷を中心とした会議体制を作ろうとしたのだ。 *下につづく
グラバーの思惑はどうだったのでしょうね。彼は基本的に死の商人だったから、戦争が続けば続くほどもうかることとなる。 現実に、グラバーは明治維新が簡単に終わったため、武器が売れず、また大名が代金を踏み倒たからら破産しますね。
2022年08月01日00時10分
頑張れ!てんちゃんさん 当時、武器の売買は先端技術の商取引であり、各国政府との取引ですから、今日の商社となんら変わることはありませんね。 グラバーのその後の人生を見ると、彼は必ずしも死の商人ではなかったと思います。 確かに倒幕戦争が起これば、銃はもっと売れて、彼はもっと儲かったでしょうね。それは龍馬にしても同じことです。亀山社中/海援隊も銃の売買をしていたのですから。 グラバーは、貿易商としてのグラバー商会が破産してからも日本に残り、炭鉱経営や造船、ドック建設等の事業をやり、日本の近代化に大いに貢献しました。キリンビールの基礎を築いたのも彼です。日本人の女性と結婚し、子供も設けています。たぶん彼は、龍馬と同じような人間だったか、もしくは龍馬に影響を受けたのかもしれません。そしてきっと日本が好きだったのでしょうね。
2022年08月01日00時40分
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*上からのつづき しかし四候とは言っても、越前松平(御家門親藩)を除いては外様大名の引退者であるに過ぎず、将軍である慶喜に対しては意見を言上するという形を取らざるを得ない。信念を持った将軍に対し、諸侯にそれを覆す力はなかった。 慶応3年5月(1867年6月)、将軍慶喜と四候を交えた朝廷会議が行われた。 慶喜はこの会議に不退転の覚悟を持って臨んだ。慶喜の気迫は凄まじく、四候や朝臣の反対も押しのけて、慶喜の提唱する兵庫(神戸)港開港の方針が通り、勅命が下された。慶喜の全面勝利だった。 天皇は、15歳の明治天皇であった。慶喜の思い描く、幕府主導の公武合体、つまり幕府の言うことはそのまま勅令である、という体制が実現されようとしていた。 薩摩の思惑は、当てが外れた。 西郷や大久保は、四侯会議の失敗を踏まえて戦略を変えた。公武合体を捨てて、武力による倒幕へと大きく足を踏み出したのだ。 西郷と小松は、中岡慎太郎の紹介で、土佐の急進派、乾(板垣)退助や谷干城と倒幕の密約を交わす。薩土密約である。小松がこれを重臣会議に提起して了承された。これで薩摩は武力での倒幕へと大きく舵を切ることになった。公武合体論者だった藩主の久光も、時の流れには逆らえぬと見て、渋々ながらも同意した。さらに薩摩は、朝廷の岩倉具視らに働きかけて、倒幕の勅命を得ようと工作を始める。 薩長の戦略転換を知って龍馬は動いた。 龍馬は、日本が平和の裡に一つになることを望んでいた。しかし幕府主導の公武合体ではこれまでとさほど変わらない。龍馬の思い描く日本の未来像は、すでにヨーロッパでは達成された議会制度であった。一つの王政の下に、人民から選ばれた議員が公論を議論し、それによって国の方針を決める。そういう国家像を描いていた。だから公武合体をしても幕府が主導するのではだめだ。しかしだからと言って、戦さによって幕府を倒そうとすれば、多くの国民の血が流れる。国を二つに分けた戦さになればいつまで続くかも分からない。なんとか戦さを回避する方法はないか。海援隊の仲間たちとも話し合った。 そして一つの結論に達した。幕府が自ら、政権を朝廷にお返しするという方法だ。 そうなったら、朝廷を中心として各雄藩諸侯や俊英たちを集めて議会を作る。将軍慶喜も含めて幕府からも入ってもらえばいい。そうすれば挙国一致の議会ができる。 まずは将軍に政権を奉還してもらうことだ。 さて、それをそれをどこから始めるか。 もう倒幕に動いている薩摩や長州は無理だ。可能性があるのは土佐の容堂公である。容堂公はもともと幕府寄りだ。同じ土佐の乾(板垣)退助などとは違って、倒幕には組したくない。後藤(象二郎)から容堂公にこの政権(大政)奉還の考えを説いてもらおう。龍馬の腹は決まった。 *つづく
2022年07月31日22時31分