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写真掌編:続々々・夜会の花(龍馬異聞 Ⅳ)1

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    *海への道・California poppy *つづき  龍馬と三吉とお龍は、そのまま伏見の薩摩屋敷に一週間ほど居た。寺田屋での騒動のほとぼりが冷めるのと、龍馬の手の傷が癒えるのとを待っていた。  捕り方が撃たれたとあって、伏見奉行所は下手人を血眼になって探していた。薩摩藩邸にも問い合わせがあったが、藩邸では知らぬ存ぜぬを通した。  そうこうしているうちに、京の西郷から連絡があった。京の薩摩藩邸に来た方が良い、との手紙とともに、護衛の兵を差し向けてよこした。 *下につづく

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    *つづき  三人はすぐに出発した。  まだ傷の癒えない龍馬は籠に乗った。お龍は目立たないようにと、兵と同じ戦さ仕度をして、槍を担いで京に向かった。お龍はそんな自分を、顔を袖で隠して笑った。  途中で小松帯刀が馬に乗って現れ、龍馬たちを迎えた。 小松は、人格、識見ともに優れた人物で、乗馬を能くし、しかも薩摩示現流の腕も立った。龍馬と同い年であり、時代を見通す目を持ち、西郷や龍馬の活動を支援していた。 気さくな人柄で、薩摩の家老でありながら龍馬たちを出迎えに来たのだった。  京の藩邸に着くと、西郷が「よう来た、よう来た」と、玄関に出て来た。 そしてお龍に向かって、「お龍、今度のことは、お前が一番手柄じゃ。お前がおらなんだら、皆は命がなかったかもしれん」と言って座敷に招き入れ、しきりに茶菓子を勧めた。  龍馬とお龍は、そのまま薩摩藩邸でひと月余りを過ごした。 龍馬がこれほど長く西郷や小松と一緒にいたのは、後にも先にもこの時だけであった。 西郷、小松と龍馬は毎日のように会い、話をした。西郷や小松の師ともいうべき前藩主島津斉彬から学んだ公武合体論や、水戸の烈公、徳川斉昭から始まった尊王攘夷思想などに話が弾んだ。 また同時に、西郷は龍馬の上海での話を聞きたがった。  「龍馬どん、上海での話をしてたもんせ、」 「おお、西郷さん、上海はの、いや清国はの、エウロッパに食い物にされてしもうたぜよ」。「西郷さんも知っちょる通り、6年前に清国はエゲレスとフランスに負けて、九龍半島を取られたり、天津港を開港させられたりしちょった」。「異国との交易も自由にやるようにさせられちょった」。「ほとんど植民地にされてしもうたが」。「この前わしが行った上海でも、エゲレス人らが大手を振って歩いておったぜよ。もっともそいつらは、わしが世話になったグラバーの親会社の連中じゃがの」。「そうそう、その親会社は何年も前に横浜に支店を作っておるそうじゃ。マセソン商会、言うち。いっぺん訪ねてみたいと思うちょる」 「これからはの、西郷さん、いつまでも攘夷、攘夷言うちょらんで、外国と対等に付き合っていくようにせにゃいかんぜよ」  「おお、龍馬さぁ、それにゃ、それこそ公武合体じゃ」。「そげんでも、みかどが攘夷を言うとる以上は、尊攘を旗印にせんと神輿が上がらんごわす」  「西郷さん、いまは日本の都合で、攘夷を言うんも仕方なかが、んでもこれからも外国が、開国・開港を迫ってどんどん押しかけてくるぜよ。この流れは抑えられん。あの清国ですらも門を開けざるを得なかったんじゃ。さもないと戦(いくさ)になる。戦になったら、蒸気船で世界を歩き回るような外国にゃあ、とても敵わんぜよ。おととしの下関での戦争で長州はこてんぱんにやられたじゃろ?」。「じゃから攘夷言うんは、公武合体のための方便にだけしとき。本気で考えたら行かんぜよ」  龍馬の論に、西郷は腕組みをしたまま何も言わなかった。 *つづく

    2022年07月25日22時43分

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