hatto ファン登録
J
B
巖巖と書いて、「がんがん」と読みます。こんな言葉有るんですね。意味は『山や岩などのけわしくそばだつさま。人格の高尚なさま』だそうです。この滝の滝壺にある岩に魅力を感じて、いつもこの様な切り撮りになります。同じ様な写真で済みません。
breeze&iさんコメント有り難うございました。 滝撮影では、滝波(落ちる水)に目が行きがちですが、その周りにある岩壁や滝壺に魅了があります。出来るだけ木々などを入れないで、岩を描写することに心がけています。
2021年10月07日11時03分
Khmerさんコメント有り難うございました。 Khmerさんの仰ることよく分かります。古来から人々は自然に畏怖を感じ、そこから信仰心が生まれたと思います。その畏怖を忘れないように、不動明王などを作り、身近にそれを置くことで、常に心を戒めて来たのでしょう。また滝で滝行が現在でも行われているのは、そういった畏怖に対し、身を崇め清めたのではないのでしょうか。 その様なことを考えて撮影したかは分かりませんが、この様な写真作りには、自然と感じての撮影だったのかもしれません。
2021年10月07日11時14分
房総半島☆南風さんコメント有り難うございました。 いつもそうですが、滝を撮影しているとき音をそれほど感じたことがありません。 きっと滝に気持ちが吸い込まれていたのかもしれません。 後で自分の写真を見て音を感じる事があります。
2021年10月07日11時16分
Advocさんコメント有り難うございました。 私の良い滝というのは、滝の大きさや落差などではなく、岸壁や岩組などが写真になるかどうかです。そういう意味では、それほど大きくない滝ですが、この滝はお気に入りの一つです。
2021年10月07日11時20分
yoshi.sさんコメント有り難うございました。 真ん中からやや左の岩が、髑髏のようで前回掲載させて頂いたとき、そんなタイトルを付けました。お墓から甦ったのかもしれません。(苦笑)
2021年10月07日11時23分
Khmer
私はこうした巖巖を見ると一種の恐ろしさを感じます。険しくそばだつ巖と巖など、大きくて厳格な存在に慄きを感じます。一種のフォビア的な心理状態でしょう。恐れる反面、近寄って見てみたい。この巖巖に流れ落ちる水も相まって恐ろしい位の、何か神格化された空気感に慄きます。恐らく仰る、高尚な様を眼前にして自己の罪悪感がそう感じさせるのだと思います。巖巖にさらけ出す自己の罪悪感から来る恐怖心ですね。hattoさんは怖くはなかったですか? 不動明王を拝む時の感覚にも似ております。
2021年10月05日07時55分