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この青錆に徳川の想いが込められているようだ。 上野公園に鎮座する上野東照宮は、1627年に藤堂高虎と天海僧正が 寛永寺境内に建立し、1651年に徳川家光が造営替えしたものである。 社殿の近くには銅灯籠があり、全部で48基ある。銅灯籠も石灯籠と同じように奉納者の名前が刻まれている。 上野戦争過でもさすが新政府軍もこの神社は焼かれることはなかったようだ。 こちらは譜代大名等が奉納したようだ。 上野公園 東照宮 旧寛永寺境内
歴史的で威風堂々としている銅燈篭です。私も何度か撮っていますが青錆の年季の入り方が見事です。モノクロームで撮るとさらに味わい深くなります。(^_−)−☆
2021年07月15日06時52分
Winter loverさん コメントありがとうございます 青銅の灯籠は風格がありますよね モノクロームでも仕上げましたが、この青銅の緑青の質感が出したかったのでカラーにしました。^^
2021年07月16日09時03分
デーデーポッポさん コメントありがとうございます この青銅の緑青の色が出したかったですね 縦位置も考えたのですが、存在感を出すには横位置で二列の方がいいかなと思いました。 またこのサイトに載せるにはやはり横位置の方が迫力がでるようですね。 モニター画面は横位置ですので、デジタルになってからは縦位置は嫌う人もいるようです。~~^^
2021年07月16日09時09分
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現在NHK大河ドラマで「『青天を衝け』を放映されているが、その中で徳川慶喜が出てくるがこの寛永寺には数奇なドラマがあった・ 第15代将軍となった徳川慶喜は、翌念12月に王政復古の政変で将軍職を失い、 明けて慶応4年の1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いの最中、大坂城を抜け出して江戸城へ逃げ帰る。 新政府軍から追討令が出されると、慶喜は即座に江戸城を勝海舟に任せ、寛永寺で謹慎を始める。 錦の御旗を掲げた新政府軍が江戸城に進軍、やがて無血開城で徳川幕府は最後の砦を失うのである。 慶喜は江戸城開城後寛永寺を後に水戸へ謹慎の場を移す。 寛永寺に集まった幕臣たちはそのまま彰義隊を結成し、徹底抗戦へとついに上野で戦争が始まった。 しかし戦闘はわずか半日、この日の戦闘で寛永寺のほとんどの伽藍は焼け落ちてしまったのである。 江戸に入った新政府軍の神道を推し進め、恭順の意を示した徳川慶喜の15人の将軍の中で唯一神道系の姿で、谷中の墓地で眠っている。 尚他の将軍の墓は芝増上寺に祭られている。
2021年07月15日06時55分