TR3 PG@
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ボン旧市街の対岸にあるボイエル地区の中心、ボイエル=ミッテの市街にくると、堤防が2段で高くなっています。 街はしっかり堤防で守られているように見えますが・・・どうも水害からの防御というよりは歴史的な背景がありそうです。 堤防の一角にこのようなモニュメントを見つけました。 行き交う人々の目には止まらないようですが、σ(^_^)はめちゃ気になりました(^^ゞ かつては対岸のボンと熾烈な対立関係にあったようです・・・ 簡単にコメント欄に記しておきます・・・
一方の対岸のボイエルは小さな村でしたが、ボンの対抗勢力(その時代時代によって異なるようです)がボンに睨みを利かせる戦略的拠点の重要な一つとして整備・発展してきました。 もともとはライン川での漁業で成り立っていた小さな集落だったようですが。 16世紀末にはボンに対峙する要塞が建設され、ボンを征服するための出発点とされたようです。 その時期に合わせるように、前出のボンの要塞アルター・ツォルAlter Zollも造られていると思われます。
2021年03月15日00時48分
ところが、18世紀のユトレヒト平和条約によって講和が進み、要塞の解体、街の発展へと進んでいったようです。 そしてこの記念碑に記してあるように、両岸の交流が始まり、船の行き来が盛んになり、19世紀末にはついに鉄骨構造の橋で両岸が結ばれたということです。 もっともこの橋は第二次世界大戦の終末間近に、連合軍のベルリン進軍を阻止するためにドイツ軍によって破壊されてしまいました。 今かかっているケネディー橋の直ぐ下流側にその台座が残っています。
2021年03月15日00時49分
TR3 PG@
大河ライン川は歴史的に見ても勢力の境界になっていたことは容易に想像できると思います。 つまり、ボイエルは今はボン市として同じ自治体になってはいますが、ボン旧市街とライン川を隔てて敵対関係にある長い歴史がありました。 ご存知のようにヨーロッパ大陸は常に陣取り合戦をやっていましたからね。 ボンはもともと紀元1世紀にローマの駐屯地となり、途中の浮き沈みを経て12世紀以降はケルン大司教の支配下になり17世紀にはその大司教・選帝侯の居所となります。 18世紀末にはナポレオンによって一時期占領されてもいます。 つまりフランスに屈した時期もあるのです。
2021年03月15日00時48分