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- 中島橋より大堰川(おおいがわ)を望む ~京都嵐山晩秋紀行~
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通例として、京都市右京区京北地区の流域にかけては上桂川(かみかつらがわ)、南丹市園部地区に入ると桂川、南丹市八木地区から亀岡市にかけては大堰川(おおいがわ)、亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは保津川(ほづがわ)などに名を変え、嵐山から合流地点は再び桂川と称される。これらは通例であり、1896年(明治29年)4月に旧河川法が公布、同年6月の施行以降、行政上の表記は桂川に統一されている。国土地理院の測量成果においても、全流域において桂川の表記に統一されており、他の呼称が用いられることは最早ない。
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「山城国風土記」(逸文)や「日本後紀」によると、京都盆地流入以南の桂川は、古くは葛野川(かどの)と呼ばれていた。古代、嵐山周辺の桂川の流れは現代とはやや異なるものだったと考えられている。そのこともあり洪水に苦しめられたようだ。嵯峨や松尾などの桂川流域を支配していた秦氏が、6世紀頃に桂川に堰堤を築いたとされる(葛野大堰)。とくに下嵯峨から松尾にかけて桂川東岸に築かれた堤は罧原堤(ふしはら)と呼ばれる。「秦氏本系帳」によると、これら堰堤完成の際に、それまでの葛野川から大堰川と呼ばれるようになったとある。 その後、嵐山周辺および上流域では大堰川、あるいは大井川(大堰と大井は同義である)、嵐山下流域以南では桂川、あるいは葛河(かつら)と称されるようになった。「土佐日記」では桂川の字を、「日本紀略」では大堰川の字を、「徒然草」では大井川の字を見ることができる。「徒然草」の第五十一段では、嵯峨野の亀山殿に大井川から水を引く様子を伝えている。「雍州府志」では、川の西に桂の里が有ることから嵯峨より南の下流域を桂川と呼ぶようになったとあり、それより上流にあたる嵐山流域をやはり大井川(大堰川)としている。
2013年12月06日08時44分