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敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花。 葉と花が同時に開く山桜。取り合わせが美しく、飽きません。
旅鈴さん 投稿第一作への第一号コメントご訪問、ようこそ。 丸6年にして初めてコメントを頂戴しました。 旅鈴さんは、朝日に匂ふ山桜、のようですよ。 私も、そうありたいと思っています。
2019年04月16日09時42分
この作品「山桜」が3500余の投稿作品の第1号なのですね。 投稿から6年越しに旅鈴さんのコメをいただかれた。 「私もかくありたい」という思いを共にできるからの写友なのですね。 本居宣長のこの歌 小生は長らく疑問を感じておりました。 宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれた歌だと言われておりますね。 朝日を感ずるのは視覚、匂ふのは嗅覚 「朝日に匂ふ山桜花」をどう解釈 するのか? ある方の解釈では、「にほふ」の「に」は、「丹」つまり「赤」 で姿かたちの意であり、「ほ」は、「穂」つまり「自然の恵み」の意であると、 ですから「匂ふ」には、視覚的な意味があるのだと・・・ 「我が心は、朝日を浴びて照り映える山桜の如し」という意味なのでしょうか。
2022年01月21日20時53分
ninjinさんがここを訪れたことに1ヶ月以上も気づきませんでした。 ninjinさんは、ほぼ9年越しのコメント訪問者ですね。 本居宣長のこの歌は、いろいろに読めるでしょうけれども、私見としては、やまと心が朝日に匂う山桜なのではなくて、やまと心とは何かと人が聞いたとして、朝の日が差した山桜が匂うかのように咲いているよ、という情景描写がその答え、ということだと思っています。なんだかはぐらかされたような感じがするけれども、その情景描写によって一瞬で全てを分かって欲しい、ということかな。 宣長は、言葉での説明には否定的でした。大和心とは、感じるもの。だから、大和心とは何ですかとの問いには、山桜がただ匂うかのように朝の陽に照らされているよ、という情景描写で答えた、ということだと思っています。大和心とは、その情況の中で感じ取る力、と言っても良いかと思います。だから、和歌でも俳句でも説明的ではなく、情況を描写することで我が心を感じ取らせようとするものになっていますね。 まあしかし、政治や経済、学問などの分野に於いては、大和心ではいけませんね。忖度、などといういわばごますりにつながってしまいます。大和心は、文学や芸術の世界、あるいは人間関係の情の中で生きて欲しいですね。
2022年03月02日00時10分
投稿十周年、おめでとうございます\(^O^)/ では私は第三号コメントを・・・(笑 枚数を平均して見ると、ほぼ一枚を十年投稿誌続けたことになりますね。 根底に流れるテーマもこの頃から一貫されていて、内なる崇高な精神を常に投影されていますね。 写真をはじめ、全ての芸術、表現は、至福の境地を求める「精神の旅」なのではないかと、つくづく思う今日この頃・・・。
2023年05月04日16時03分
第3号コメント訪問者は、ペペロンターノさんですか。 10周年を機としてのご訪問、ありがとうございます。 おっしゃるように、ほぼ1日1枚を続けることができています。 初めの頃はそんなことを意図していたわけではなかったのですが、写友との交流を通して、1日1枚ペースが定着しました。いま4,200枚を超えたところです。交流が楽しみとなり、アップはその手段というのが現実jかもしれません。 その中で、写真句が生まれ、写真歌、写真詩、写真エッセイ、写真掌編小説、写真小説へという、一連の写真文芸という概念につながります。 とくに、写真掌編小説は、上記ninjinさんの「父のカメラ」という写真掌編がヒントでした。 そのような模索もすべて、写友がいて、それを読み、その感想をコメントし、励ましてくれたからこそできたことです。 中には自ら句や歌を作ったり、掌編小説を書く人も現れました。掌編クラブというつながりも生まれました。旅鈴さんは、その嚆矢です。 ペペロンターノさんも、写真の手練れであるだけでなく、文を書く人。とても身近に感じています。 なんてったって、写真作品の中核を、祇園巽橋の芸妓、舞妓に置いている人だもの。華やかで、いいやね。 これからもどうぞよろしくお付き合い下さい。
2023年05月04日17時16分
旅鈴
なんという偶然。 私の大好きな山桜の花の歌が、投稿第一作なのですか。 6年前なのですね。 以前も書いたようにこの花は私の友人が好きな花です。 勿論私も好きです。 今回こちらを紹介してくださってありがとうございました。 しみじみとその清楚な姿に見入っています。 やっぱりかくあるべきだなあ。 私もかくありたい。
2019年04月16日00時46分