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>landoviperさん です。南三陸町の防災対策庁舎です。 この建物を巡る経緯、現状は語る必要もないですよね。 1年半経ってもこの景色は変わらないように見えますが、背後に立っていた志津川病院は取り壊されて瓦礫の山に。 全壊、半壊した建物が更地に戻って行く様子を見ていると何とも複雑な気持ちになります。 更地に戻さなければ、何も始まらないのは理解しているつもりなのですけどもね。^^;
2012年12月21日00時55分
>Hsakiさん 南三陸町は町の中心部がごっそりなくなってしまいました。 被災した建築物の取り壊しが(やっと)始まった状況ですので、瓦礫はまだまだこれからも増え続けるのではないかと思われます。コンクリートの堤防なんかも壊れたまま横たわっていますし。 商店街やコンビニもプレハブの仮設店舗というところがまだまだ多いのです。 仮設住宅、仮設店舗、仮橋(橋が落ちてしまったので)。仮設ばっかりです。
2012年12月21日12時48分
何万もの尊い命が亡くなり、 どこにも向けられない怒りとも言えない喪失感、何もできない虚無感。 津波が去った後、行方の分からない家族の名を呼ぶ姿を見た時、 自分は自分の膝を強く掴んで涙を流していました。 今でも刻銘に蘇ります。忘れてはいけない。 日常という幸せを思いださせてもらえる一枚ですね。
2012年12月23日03時06分
>おハムさん まさにおっしゃる通りだと思います。 それらをまとめて僕は「身の程を知った。」と言う言葉にしています。 悪い意味ではなく、自分に何ができて、何が出来ないのかという掛け値なしの「身の程」です。 この場所に来ると、その思いを強くします。 一つ認識の違い(?)があるとすれば、この光景は日常そのものですよ。 1年半以上前から、ここにあり続けている景色です。
2012年12月24日00時35分
こんにちわ。遠路ご苦労様です。何度見てもつらくなる光景です。 小説家の橋本治氏がおっしゃっていました。 「廃墟に立つことをいやがって自分たちのいるところが廃墟だと認める度胸がなかったら、 そのときこそ日本人はおしまい、ということになるのではないか」と。 私の親族は福島におりまして、祖母が毎年野菜をこちらに贈るのを楽しみに農作業をしておりました。 が、そのささやかな絆も断ち切られました。多少の放射能なんか気にしませんけどねこちらは・・・。 被災地を置き去りにして自分たちの景気のことばかり考えてるとしまいには本当の終わりが訪れるような気がしてなりません・・・。 まあ猫ばかり撮っている自分が言うのもなんですが(笑)
2012年12月26日18時08分
>やぎやぎさん こんにちわ。^^ そんなに遠くもないですよ。慣れてしまえば。(w 自分が何となく理解できるのは、自分が見聞きして感じた事だけ。 良くも悪くもそういう事なのだろうと自分自身そう思います。 そして、やはり良くも悪くもこの景色を自分の眼で見る事のできる自分は、ある意味恵まれていると思うのです。 仙台辺り(国分町)はバブル以来の好景気だと言う話しもチラホラ。けっこう切ないです。^^; 野菜、残念ですね。いつかまた、野菜が送られて来ると良いですね。
2012年12月27日00時34分
>m-hillさん 縁あって1年半ほど三陸に通っていますが、間違い探し程度にしか景色が変わっていないような気がします。 崩れたままの堤防、落ちたままの橋、建築物の残害などなど。 それでも記憶は薄れて行ってしまう訳でして、たまにこういう写真もアップしようかと思います。^^
2012年12月30日14時34分
>ミセス・ロビンソンさん 私もできるだけ当地にお金を落として行きたいと思っています。 たまに行くぐらいでは宿泊もままならないので、食事かお土産程度になってしまいますが。 (やはり微々たるものですけども。) 当初は目の前に広がる光景の写真を撮る事ができませんでした。 そのうち記録に残さねばならない。と思い始めました。 今は「現在」を見ている者として伝えなくてはならない。 とか、勝手なことを思うようになりました。 何かを伝えられるような大層な写真は撮れないんですけどもね。^^;
2013年01月17日23時20分
>ウスメバルさん なんもなんも。^^; 生まれて初めて気仙沼・本吉を訪れたのは2011年3月3日でした。 その1週間後、私がいたその場所は津波に襲われてしまい、取り残されてしまった大勢の人たちの様子がニュースで伝わってきました。正直ショックでした。 そんな経緯もあって、その場所で何かできる事があると言う事は非常にありがたい事だと思っています。 これからも「もういいよ」と言われるまで行きます。 志津川、歌津から唐桑まで、色んな人と約束しましたから。^^
2013年01月16日19時32分
landviper
ここが。。。 あの全町民に向けて決死のアナウンスをしていた場所 東日本大震災を風化させてはいけない 石巻出身の自分 復興へ向けて『共に』歩んでいきたいと思ってます
2012年12月21日00時21分