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あれ?なんか変だ。 との思いは、これを見た多くの人にあるのではないだろうか。 下は明らかにベツレヘムの星だ。しかし上の方は・・、ハナニラ・・と呼びたい。 だって上は星じゃないもの。どう見ても花だ。 他の全ては同じでも、形が違う・・、いや、違いはしない。微妙に異なるだけだ。しかしこの異なり方は、私にとっては決定的だ。 そうか。私にとってこの花は、ベツレヘムの『星』、だったのだ。正規の、ハナニラとだけ憶えていればこれほどの違和感を覚えることはなかっただろう。
確かに違いますね カメラを持ってから、それまで気付かなかったことに気付くようになりました あなたのように思いをめぐらすことはありませんが、それでも「命」について考えることが増えたような気がします
2022年04月07日23時08分
はなてふさん 写真を撮ることは、観察をする行ですね。楽しい修行です。 まあ、これがプロになると、楽しいとばかりは言っていられないでしょうけれどもね。 何だってそうです。スポーツでも、ゲームでも、アートでも、遊びのうちは楽しい。しかしプロになると、たとえ意に染まないでもお客の要望に応えなければならない。ある意味、苦行かもしれない。好きなようにやって、それでプロが通せるならそれに越したことはありませんが、そりゃ相当の腕利きだ。 ですから、苦行ではなく、楽行としての写真をやりましょう。お釈迦様だって、8年間の苦行を捨てたからこそ悟りを開いたのですから。
2022年04月08日00時47分
ジョニー森永さん はなてふさんのコメントの要点とは、命について考える、ということでしょうか。 写真は行ですね。行は修行。文字通り、行う学びです。楽しい修行、楽行をしましょう。
2022年04月08日01時54分
「お釈迦様だって、8年間の苦行を捨てたからこそ悟りを開いたのですから。」 ということを知って、はなから苦行をさぼっているninjinです。 ベツレヘムの星からお釈迦様へ・・・挿話の拡がりがすごいです。 洗礼と灌頂の相似に東西の融合、交流に思いが至ります。 先日15年ぶりに東大寺の毘盧遮那仏にまみえて天平の世界に思いをはせました。 以前と異なるのは、小生の両手に抱かれた二人の孫が歓声を上げたことです。
2022年04月10日20時59分
ninjinさん お孫さんを連れて東大寺の灌仏の行事に行かれたのですね。幸せです。 お孫さんへの何よりの贈り物です。 洋の東西を問わず、水には清める意味がありますね。よく理解できます。
2022年04月11日00時42分
yoshi.s
(ここからはメモです。無視して下さい) 言葉が持つイメージ。 イメージに名を与えた(または覚えた)時に、それまでの自分の記憶に照らし合わせることによって印象が定まる。その印象が厳密であればあるほど、他との差異が生じやすい。印象が曖昧であれば、どれでも似たように見えるかも知れない。 他と区別することで物がはっきりし、知が発達した。サイエンスは知識という意味だ。そしてサイエンスの日本語訳は科学。科とは分類すること。科学とは区別の学問なのだ。区別こそは知の基礎だ。 分類は他との差異を以って行う。ではその差異は何を以って差異とするのか。 まず生物か否か、から始まり、動植物、形、色、大小、硬軟、数限りなくある。 とくに17世紀のデカルト以降、分類は果てしなく行われた。科学の発展だ。 それによってこの200−300年の人類の科学物質的発達は止まるところを知らない。結果として、現在の私たちの物に溢れた生活を可能にした。 しかし、知識としてだけの区別ならばそれでいいが、その区別を以って自分と他人を分け、自らが優れ他は劣る、という自己優位意識が強くなると、上下の差別につながる。人種問題もその一つだ。ヒトラーのアーリア人優位説に基づくユダヤ人虐待、アメリカにおける黒人差別。現代における少数民族差別。家柄による差別。学歴による差別。貧富による差別。区別することによって生まれる優位意識こそがその根源だ。 まあ、貧富の差別は行政によって何とかなるかな。そう願いたい。 翻って考えれば、少なくとも、生まれて、食べて、生きて、死ぬ、ということに於いて、生き物に差異はない。 人間だって花だって本質的には同じだ・・、とまではいかなくとも、犬や猫となら同じだな。 写真という、観察の行は、そんなことを教えてくれる。
2022年04月07日22時58分