- ホーム
- 我画(gakaku)
- 写真一覧
- 「若櫻 必勝 一撃空母轟沈」
我画(gakaku) ファン登録
J
B
J
B
君のため 世のため 何か惜しからん 空染む屍と 散りて甲斐あり 第72振武隊 荒木幸雄少尉(写真中央 享年17) 『特攻基地鎮魂の譜 よろずよに』参照(万世特攻慰霊碑奉賛会20210801発行)
こんばんは お国の為とはいえ狂った軍国主義の犠牲になられた方々の特攻前の表情 穏やかで余計に胸が詰まる思いで拝見させていただきました。 何年か前に知覧特攻平和会館を訪れ、同じように拝観させていただきましたが 若い航空兵の方々が家族宛に書かれた遺書の数々を拝見しましたが 涙が止まらず会館を出る際には、最敬礼させていただきました。
2021年10月09日23時45分
Air Fixさま コメント有難うございます。 戦争で失ったものは数え切れませんが、特攻隊をはじめ多くの優秀な若者を、無謀な戦いの中で失ってしまったのは大変残念です。 鹿児島は他県に比べ特攻隊員を慰霊する施設が多くあるのではないかと思います。知覧が1番有名ですが、もっとも多くの死者を出したのは鹿屋の方です。しかし、海上自衛隊の基地があるため、かつて悲劇があったことは、大々的に取り上げにくいそうです。
2021年10月10日09時36分
マスターさま コメント有難うございます^_^ しかし、コメントの最後が躊躇いがちになっていらっしゃるのが気になりました。 確かに平和にはなりました。でも勇敢な人たちを失ったと思います。 戦後、日本はアメリカの属国となり、自分たちで国を守れない状態になっています。 特攻隊の方々はこんな戦後を望まれていたのかと、ふと考えたりします。 非礼の段、どうかお許しください。m(__)m
2021年10月11日21時25分
自分も知覧特攻平和会館で足が動かなくなりました・・・まだ十代の若者たち。 尊い命を散らせてしまった上の人達、なぜ現実を直視しようとしなかったのでしょう。 今更何を言っても遅いですが、本当に無念としか思えません。 そして多くの尊い命を日本の為と思い散らされた方々、残されたご家族に心からご冥福をお祈り申し上げます。 自分の大叔父も特攻隊員でした。 ギリギリ、帰還出来たそうですが。 PS 初めてのコメントで色々書いてしまいました、すみません。
2021年11月07日21時13分
羅 羅 さま 知覧にしろ万世にしろ、あの場に行くと白黒写真一枚となったお姿とはいえ、特攻隊員さんたちが今も何かを伝えていらっしゃるように感じます。さらに、遺書の一節にグッと心を掴まれた瞬間があレば、今も生きていて何かを伝えていらっしゃるような思いに駆られ、お写真をじっと見てしまいます。 帰還された特攻隊員の方々も、その後、心の苦しみを抱えて生きていかざるを得ないという悲しいお話を聞いたことがあります。 コメント有難うございました。
2021年11月09日22時37分
いつもありがとうございます じつは幼少の頃より丸など読み漁ったクチでして 親がナゼ むずかしい顔をしてるんやろ 不思議だったというのが原点でしょうか 軍医だった祖父はニューギニア撤退時間稼ぎで戦車の中で戦死したらしい 実際、あの戦争は何だったのか 明確に答えられる方は残念ながらいないでしょう 私が衝撃を受けたショットをお伝えすると・・ 講談社文庫から出ている ”真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝 ”から5ページめ ハワイ攻撃前日 赤城指揮所での談笑風景 の1枚です 翼をもがれた97艦攻のドワップもおそろしいのですが この1枚もすごかったです もちろん神立尚紀さんの零戦文庫は全部読んでいますが・・ さいきん読んでいるのは これも講談社α新書になってしまうのですが 生贄探し 中野信子+ヤマザキマリ とてもシンプルに突っ込んでいてモヤモヤが吹っ飛ぶようないきおい? しかし単純にツボを突いています わたしは・・・ そんなショットを撮っていくべきかとムチを入れられた感じです^^
2022年01月26日19時45分
suzakid77さま コメント有り難うございます。 ニューギニア……大変過酷な戦場に赴かれていたのですね。 軍医が戦闘に駆り出されるとは、本当に絶望的な戦況だったのだと存じております。 数年前、初めてC-17という米軍の輸送機を見たとき、その巨大さに圧倒されました。 そして同時に「こんなスケールの違うものを作る国と戦争して勝てるわけがない」とも思いました。 旧日本軍の上層部は、本当に無謀な戦争を始めてしまったのだとつくづく思います。 ご紹介頂いた写真は未見ですが、機会を見つけて拝見したいと思っております。 私の場合、満州に行っていた祖父(故人)から、時おり戦争の話は聞いておりました。幸い命を落とすような激烈な戦闘に巻き込まれたことはなかったようです。しかし、従軍中に持病が悪化して、一旦戦地から船で引き上げてきたそうですが、その途中船内でマラリアに罹り、ろくに薬もなく、死にかけたと言っていました。 祖父は勤務先の社長が購入したとかいう巨大な戦艦大和の模型を、わざわざ自宅にもってきて孫(含・我画)たちに見せてくれました。またゼロ戦が展示されている特攻隊の資料館などにも連れていってくれました。一方で、銃後を守っていた祖母は決して戦争中の話をしたがりませんでした。
2022年01月27日14時55分
レスありがとうございます 終戦後、我々は口をつぐむ親らに何も教わらず・・ 想像や資料調べでしか大戦の輪郭をつかむのが精いっぱいでしたが 最近になってオープンになった新事実や映像が出てきて眼をみはります いままで見聞きしたことと違う! なんてことがこれからもあると思います 近年読んだのでは、B29はナゼ反転したか 元朝日ライターでうん?と思ったのですが 読後、これは・・・ 広島をやり過ごし呉へ向かってから反転 これは明らかに空襲警報解除を狙った民間人実験だと思いますね そういう視点は忘れてはいけないというか SNSやメディアに頼りすぎている同世代にオイオイと思ってしまう;
2022年01月28日21時02分
TRADYO1
今晩は。 この様な写真と文章を拝見すると、目頭が熱くなります! (T_T)
2021年10月09日22時56分