yoshi.s ファン登録
J
B
yoshi.s様、私は足ではなくて、青年の様な人物が頭を抱えて何かの呪縛から解き離れたいと考えている様に見えました。影にみなさんの想像力はアクセレートされますね。 何かを訴えている。
2021年10月04日16時53分
Khmerさん はは。文学的に見てくださってありがとうございます。が、実はこの手はカメラを持っている手なのです。でも、青年のような人物、という箇所はそのまま頂きます。
2021年10月04日18時29分
実はそう思って、青年と書きました。この写真指編を拝見した時に直ぐにYOSHI.S様の問題提起を頂戴したと思いました。計算済みです、、、、。 YOSHI.S様一流の問題提起が大好きです。写真を見る人の感性とその文章にも考えが及んで撮影されているのですかね? この写真指編をもっと下さい。凄く知的な感じがしてます。実はアメリアの大学で勉学に励んでいたとは言えませんが修辞学のクラスを履修した際にカナダ人のオロールク教授からもこの様な設問形式のディスカッションをしたのを覚えております。当時は写真は高価なものでしたので教授が雑誌か何かの写真を切り抜いて利用し、一言だけ単語が黒板に書かかれ。これについて正しく指編を語り合う講義でした。楽しかったですね。
2021年10月04日21時27分
Khmerさん はは。そうでしたか。 いやあ、問題提起などと、そんな大それたことは考えていません。 ただ、自分は何を撮ろうとしたのだ、という自問があるだけです。それも、被写体がありふれたものである場合がほとんどです。これの何が面白いのだ、と自分に問いかけ、まあ、それなりの答えを見いだした時、指編とするのです。指編とは自分の中に入って行く行為、と言えるかもしれません。 見る人にすれば、分かりやすいことも、分かりにくい時もあるでしょう。この指編などは少々分かりにくいかもしれませんね。結果としてそれが問題のように見えたとすれば、それは埒外のことです。ただ、ご一緒に考えて下さるのなら、それは大歓迎です。
2021年10月05日00時46分
yoshi.s様、どうぞ写真を新しい文化、芸術、学術と色んな分野へ誘って下さい。二次元空間を表現するデバイスである写真、カメラを利用してもっと思考を増幅する事が出来る指編を我々に誘って下さい。絵画、フィルム写真、デジタル写真映像と二次元空間を表現化する技術は凄い勢いで発展していますが、それを単なる情報処理能力を高める為のデバイスとして使うのだけではなく、一枚の写真と通じて、仰る通り「自分の中に入って行く行為」を追求することが私達の心をもっと豊にすると考えます。指編はyoshi.s様が創造した「写真を撮る、撮りたい、何故撮るか」を考えさせる新しい形の写真論だと思います。
2021年10月05日07時18分
Khmerさん 私には過ぎる評価を頂き、嬉しくもあり面映ゆくもあります。 私は、このPHOTOHITOに出会い、アップしているうちに、自分の撮った写真を見て感じるものがあると、それを短い文章にしてキャプション代りにしていました。 そのうちに行間を読む俳句に惹かれ、写真と俳句を相互補完の関係にした、写真句という作品形態に至りました。それをもう少し叙述的にしたものが写真歌。写真を起点としながらも思いを膨らませたものがエッセイ。短い物語の創造が写真掌編(写真掌編小説)。写真掌編の連続による写真短編小説。などなどの形式を工夫創造しました。 この一連の創造の過程はとても刺激的で楽しいものでした。その間、多くの写友の励ましに勇気づけられました。しかし、文章が長くなればなるほど、起点となる写真からは離れていくことも自覚しています。それはそれで、膨らみとしての価値があると思いますが、大本の写真を撮った時に感じた自分の感覚に、直接目を向けたいという気持ちが強まりました。 きっかけは省きますが、撮った写真を補完する説明は、多くの言葉よりも、むしろ数語の抽象的な言葉による方がより本質を表せる、と考えました。それで、数語による解説、指に書けるほどの文章、という意味で、指編、としたのです。数語の説明という特性上、その多くは題名となります。 写真指編は、結果として、自分の写真の本質を自分に探らせる、という効果を生むことに気づきました。この方法をもう少し深めてみようと思っています。 私の模索の道を見抜いて、嬉しい応援の言葉をくださったKhmerさんに感謝します。
2021年10月05日13時29分
yoshi.s様、俳句、短歌、エッセイー、短編物(仰る一連の創造の過程)は勿論、文語としては言うまでも無く素晴らしい文化ですが、指編は写真を通して自己の心理状態を分析する(時には自虐的、利己的、プロテウス的)手法であって、その各々の自分を速写し数後の言葉によて指編とする事はまさしく文藝であります。私の拙い写真は駄文、手練手管(キャプション)を加えないと自己分析にもならない絵ばかりです。自己満足写真ですね。指編は自己を問い詰める物ですよね。反省しております。
2021年10月05日16時58分
Khmerさん 写真には、記録や報道から本格的な芸術まで。様々な目的があると思います。 しかしそのような目的に関係なく、撮った時に、あるいは写真になったものを見ている時に、自分の心の中で動く感情や印象のようなものが現れてくることが多々あります。 数語のことば、指編によってそれらを掬い上げて表に出すことができるのではないかと思うのです。それは自己発見の一法であるとも思います。お前の見ているのは何だ、と自分に問う行為なのです。 写真指編という方法で、そんなことができるなら面白いと思いますし、また、何も写真に撮らなくとも、ただ何かを見たり聞いたりしていて何かを感じたら、その感じを以って指編を作ってみる、というのも有りかな、とも思っています。
2021年10月05日23時01分
裕 369
裸足の指の影が不思議ですね。
2021年10月04日13時48分